軍命で饒波溝原に移動 登川吉雄さん 収容所で(46)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
現在の豊見城市饒波溝原

 豊見城村(現豊見城市)豊見城で暮らしていた登川吉雄さん(89)=豊見城市=は軍の命令で饒波に移動します。以後、母の佳津子さん、きょうだい4人、叔母ら親類家族の計12人で行動します。

 「米軍は与根の海岸から上陸する」と日本軍は説明し、家の近くに地雷を埋めたといいます。

 登川さんらは東風平村(現八重瀬町)、兼城村(現糸満市)の2村と接する付近の饒波のやーどぅい(屋取)、饒波溝原に住む親類の世話になります。

 「溝原は大変静かでした」と登川さんは話します。野菜を収穫するため母の佳津子さんと宜保の畑に通いました。

 しかし、上陸した米軍の進攻で溝原周辺にも危機が迫ります。日本軍の軍馬が米軍に見つかり攻撃されました。艦砲弾や米軍機の機銃掃射に遭い、弟の吉勝さんが負傷しました。

 「母と宜保の畑から帰ってきたら、弟が足のふくらはぎにけがをしていました。幸い軍医が近くにいて、手当てをしてもらいました」

 その後、米軍の攻撃は激しさを増し、米兵が溝原にも姿を見せたという情報が入ってきます。住民や避難民は南に避難することを決めます。

 「溝原の人々が雨の中、一斉に動き出しました。夜歩いている先々で米軍の照明弾が上がり、真昼のように明るくなりました。私たちに行き先を教えているようで、不思議に感じました」