監視下、米兵が老人射殺 登川吉雄さん 収容所で(48)<読者と刻む沖縄戦>


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現在の北中城村仲順の集落

 兼城村(現糸満市)阿波根の自然壕サキタリガマで米軍に捕らわれた登川吉雄さん(89)=豊見城市=ら家族12人はトラックに乗せられ、同じ兼城村の潮平に移動します。ここで一人のお年寄りが米兵に射殺されるのを目撃します。

 《激しい戦火を無事生き抜き、米軍からの給食もいただいたその晩、一老人が警備の米兵の一発で貴い命を失った。老人はトイレへ行くために出たらしい。その頃はいつどこで全員殺されるか心配の毎日だった。》

 登川さんは「潮平の浜で避難民は米兵に囲われていました。トイレに行くため、外に出た老人は家族が見ている前で殺されたんです」と話します。米軍の監視下で命の危機は続いていました。

 その後、宜野湾村(現宜野湾市)大山を経て中城村(現北中城村)仲順に移動します。

 《今度は大きな船に乗せられた。海に捨てられるかもしらんと思ったが、大山に上陸し、数泊。それから中城村仲順に移動し、落ち着いた。

 当時はまだ戦中で、ある日、中城湾に停泊中の米軍艦船目がけて特攻機が襲来した。迎撃の砲弾がものすごく、その破片が仲順一帯に降ってきて、住民がけがをした。》

 沖縄戦における日本軍の組織的戦闘が終わったとされる1945年6月23日以降も特攻機の出撃は続きます。