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豊見城村(現豊見城市)の饒波溝原を離れた登川吉雄さん(89)=豊見城市=ら家族ら12人は、親類のいる兼城村(現糸満市)阿波根にたどり着きます。
移動は1945年5月末から6月初旬にかけてのことです。日本軍の南部撤退が始まっており、日本兵や民間人の多くが饒波を経て島尻へ向かいました。
登川さんは親類の案内で「サキタリガマ」と呼ばれる自然壕に避難します。戦前、壕内で酒が造られていました。全長は約200メートルで水が豊富でした。一時、那覇警察署の署員が避難したといいます。壕は現在も阿波根の住宅地に残っています。
「大変大きなガマで、川もありました。中でご飯を炊いて食べていました。私たちが入った時、日本兵はいませんでした。そのおかげで私たちは全員、米軍に収容されたのです」と登川さんは話します。
「糸満市史」によると6月8日ごろ、米軍の砲兵部隊が壕の周辺に陣地を構えました。11日ごろ、壕を見つけた米軍が「出てこい」「爆破するぞ」と呼び掛け、ガス弾を投げ込みました。その後、中にいた阿波根住民や各地から避難していた人々は壕を出て、米軍に捕らわれます。
サキタリガマではほとんどの人が犠牲を免れ、登川さんら12人も無事でした。「もしこの壕に入ることができなかったらと思うとぞっとする」と登川さんは振り返ります。