母狙い敗残兵が銃撃 登川吉雄さん 収容所で(49)<読者と刻む沖縄戦>


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現在の北中城村喜舎場の集落

 登川吉雄さん(89)=豊見城市=は中城村(現北中城村)仲順から隣の集落、喜舎場に移動し、瓦ぶきの家で暮らします。

 《どういうことだったか、今度は仲順から喜舎場へ徒歩で移動だった。そこも大きなカーラヤーで数家族が収容された。》

 住民は芋掘り作業に追われます。米軍からは配給のレーション(携帯食)がありました。周囲には日本軍の敗残兵が潜んでおり、母の佳津子さんは命を狙われることもありました。

 《炊事は屋外で、ある晩母が炊事をしていると銃弾が母のそばに飛んできた。あわや大変なことになったと母はびっくり仰天。それは日本軍の敗残兵が裏山のガマか壕にひそんでいるということだった。》

 喜舎場にいる頃、民家を取り壊す作業に参加したといいます。焼け残った瓦ぶきの家をなぜ壊されなければならなかったのか、登川さんは今も理解に苦しみます。

 《喜舎場にいた頃、仲順の立派なカーラヤーにロープをかけて引き崩す作業を動員で手掛けた。なぜか分からないまま作業に加わった。

 戦災に遭わず健在のカーラヤーだ。なぜだったか。家主たちはそれを知っていただろうか。戦災ではなく人災だ。》

 登川さんらはその後、喜舎場を離れて、現在の宜野座村に置かれた古知屋の収容地区に移動します。