ごみ捨て場で食糧探し 登川吉雄さん 収容所で(50)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
現在の宜野座村の高松地区。一部はキャンプ・ハンセン演習場に接収された

 中城村(現北中城村)喜舎場の民家に収容されていた登川吉雄さん(89)=豊見城市=ら家族は金武村(現宜野座村)古知屋の収容地区に移動します。古知屋は戦前、中部や国頭など各地の人々が入植した県営の開墾地でした。

 登川さんらが送られたのは現在のキャンプ・ハンセン演習場に接する高松です。食糧不足とマラリマに苦しみます。

 《今度は喜舎場から遠く離れた古知屋開墾地へ大移動だ。最初はテント生活、次は竹の葉葺きの仮屋だった。食糧事情、マラリアはいろいろ伝えられている通り。母たちは食材調達に大変苦労した。》

 吉雄さんは弟の吉勝さんと食糧探しのため収容地区を出て、西海岸にある現在の名護市許田まで行きました。許田には米軍のごみ捨て場がありました。

 《西海岸に行けば何か手に入ると風の便りで知り、僕は弟と2人でとにかく行ってみようと、いくつも山を越えて谷を渡って西海岸に出た。西海岸は人通りのない広く明るい地域と感じた。そこに米軍のちり捨て場があった。運の良い時は、食べ物や日用品まで手に入れることができた。》

 敗残兵に食糧を奪われることもありました。

 《日本軍の敗残兵が銃を突き付け、太刀を振りかざして物をせびる。大変怖かった。それでも我々は警備の目をくぐって越境して物を調達していた。》