学校給食、家族と分け合う 登川吉雄さん 収容所で(51)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
古知屋収容地区が置かれた宜野座村の高松地区

 登川吉雄さん(89)=豊見城市=らが暮らす金武村(現宜野座村)の古知屋収容地区は1945年9月の地方行政緊急措置要綱によって「古知屋市」となります。45年10月時点の人口は約2万人です。

 高校も設立されました。福山高校、古知屋高校、中川高校などです。これらの高校は46年2月に統合され、現在の宜野座高校となります。登川さんも一時、高校に通います。

 《収容所内に学校が設立された。戦中の旧制中学校の在校生は高校へ。ハイスクールと言っていた。そこへ編入することになって、ぼくは高校へ入学した。》

 その後、小学校に自ら移ります。給食が目当てでした。

 《小学校に給食があることを知り、ぼくは無断で高校を退学して小学校へ入学した。登校時には空き缶持参。給食のおつゆをいただくためだ。おつゆといっても丸いかまぼこが一つか二つ浮いているだけ。それにお米の大きいおにぎりだった。》

 おにぎりは学校では食べず、家に持ち帰りました。

 《我々はそれを食べずに家に持ち帰り、水を足して多くし、家族で食べた。母たちも作業でいただいたおにぎりを持ち帰り、家族で食べた。》

 登川さんは収容地区の学校で給食があったことに今でも驚きを隠せません。学校でもらったおにぎりで家族は飢えをしのぎました。