高等科2年、陣地構築従事 金城潔さん 収容所で(53)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
金城潔さん

 那覇市の金城潔さん(89)から体験記が届きました。金城さんは現在の糸満市真栄里で米軍に捕らわれ、金武町中川の収容所に送られます。糸満市米須では当時の真和志村民の1人として遺骨収集に参加しました。

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 金城さんは1930年11月、真和志村(現在の那覇市)国場で生まれました。4人兄弟の末っ子です。父の蒲助さんは中国大陸で兵役を終えた後に帰郷し、村役場で兵事に関する業務に就いていました。

 44年当時、長男の秀邦さんは長崎県佐世保市にいました。次男の光栄さんも兵役検査を経て、軍に動員されました。三男の栄次郎さんは私立開南中学校で学んでいました。沖縄戦では学徒隊の一員として戦場に動員されます。

 潔さんは真和志国民学校高等科2年の生徒でした。陣地構築に追われる日々を送りました。現在の那覇市垣花から安次嶺に至る、がじゃんびらの高射砲陣地の構築に参加したことを覚えています。

 「あちこちに陣地構築に行きましたよ。勉強どころではありません」と潔さんは語ります。

 国場の集落付近にも日本軍は陣地を築きました。国場自治会が2003年に発刊した「国場誌」によると、44年8月ごろから、日本軍は集落近くの丘「上ヌ毛」に陣地壕造りを始めました。国場住民総出で壕造りを手伝っています。

 公民館は軍の炊事場として使われ、兵舎も置かれました。「この辺はみんな陣地になったよ」と潔さんは話します。