米軍砲撃 親類4人犠牲に 金城潔さん 収容所で(55)<読者と刻む沖縄戦>


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現在の八重瀬町友寄の集落

 米軍上陸後も真和志村(現那覇市)国場の壕に避難していた金城潔さん(89)=那覇市=は米軍が迫り、親類の家族と共に島尻を目指します。

 国場を離れた時期は1945年5月の中旬から下旬にかけてのことです。一緒に避難したのは父の蒲助さん、母のカマさんや祖父母、兄嫁の家族、いとこら11人です。

 一行は南風原村(現南風原町)津嘉山を経て、東風平村(現八重瀬町)の友寄付近に入ります。薪小屋に避難していましたが、米軍の砲撃に遭い、いとこら4人が犠牲になります。

 《迫撃砲が激しくなり、家族が入っていた薪小屋近くに着弾して、4人が一度に亡くなった。即死状態でした。座ったまま、目の前で亡くなったんです。その様子は、とても表現できません。》

 金城さんらは4人を弔った後、友寄を離れて東風平村志多伯にあった日本軍の壕に避難します。さらに高嶺村(現糸満市)与座を経て真栄里へ逃れます。足が悪く、一行から遅れがちになっていた祖父は志多伯にとどまりました。

 蒲助さんは「後から迎えに来る」と祖父に言い残し、家族は志多伯を離れました。その後、米軍の侵攻で祖父を迎えにいくことはかないませんでした。

 「米軍が攻めてきて、自分たちは避難しました。とうとう祖父を見放してしまったんです」と金城さんは語ります。