収容所に迎えに来た親類 金城潔さん 収容所で(57)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
福山収容所に設けられた診療所、孤児院、養老院の跡地

 米軍の砲撃などで家族や親類10人を失った金城潔さん(89)=那覇市=は1945年6月中旬、高嶺村(現糸満市)真栄里で米軍に捕らわれます。

 18日には、米第10軍司令官のバックナー司令官が真栄里で戦死しました。米軍は日本兵、民間人を問わず、報復の無差別殺りくをしたと言われています。

 金城さんは兼城村(現糸満市)潮平の臨時収容所に移され、負傷した足の治療を受けます。

 「収容所に入って初めて足が痛み出しました。治療をして大型テントに寝かされているうちに、国場の家から大事に持っていたかばんがなくなりました。中には家族の写真帳が入っていて、悔しい思いをしました」

 その後、LST(戦車揚陸艦)に載せられ、豊見城村(現豊見城市)瀬長や美里村(現沖縄市)泡瀬などを経て、金武村(現宜野座村)福山の収容所に運ばれます。戦前、県営の開墾地があった地です。

 《私は戦争でけがをして、各地の収容所で治療を受けた。やんばるの金武村福山区の仮設テントの中で「足のけがは大丈夫だから、知り合いの方でもいたら退院してよい」と言われていました。》

 その後、同じ金武村の中川にあった収容所にいた親類が金城さんを迎えに来ます。

 《数日後、どこで知ったのか、中川区から親戚の一つ上のお兄さんが迎えに来てくれました。夢のようで涙が落ちました。》