食糧求め、ごみ捨て場へ 金城潔さん 収容所で(58)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ

 家族を失い、金武村(現宜野座村)福山の収容所にいた金城潔さん(89)=那覇市=は1945年8月上旬、親類家族の兄さんに連れられて同じ金武村の中川収容所に向かいます。

 《ここでは外での通行は自由ではありません。川上では兄におんぶされて川を渡りました。私が中川に行った日は8月7日ごろだと思います。》

 中川では竹で造った小屋で暮らしました。食糧不足とマラリア、日本軍の敗残兵が避難民の脅威でした。収容所内で親類家族の母親が亡くなったといいます。

 《収容所では2家族9人で暮らしました。家は山原竹ぶきで、4家族は入れるくらいの大きさでした。土の床に雨戸を敷いていました。心配なのはマラリアと食糧不足。山中には敗残兵がいました。食糧の配給日を知っていて、夜中盗(と)りに来たりしていました。》

 食糧を求め金城さんは収容所を出て、米軍のごみ捨て場に通うようになります。MP(軍警察)の目を盗み、山道を通ってごみ捨て場を目指します。

 《読谷の喜名に軍の大きなちり捨て場があるという話を聞き、兄と2人で戦果を上げに行きました。昼間はMPがパトロールするから山道を行きました。帰りは荷物を背負って、夜通し歩きました。》

 缶詰など食糧が豊富なごみ捨て場は「天国だった」と金城さんは語ります。