那覇の惨状目の当たりに 金城潔さん 収容所で(59)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
中川小学校の正門。1945年7月に開校した

 金城潔さん(89)=那覇市=が食糧を求めて金武村(現金武町)中川の収容所から米軍のごみ捨て場に通ったのは3回ほどでした。MPに捕まり、石川に連行されて砂場に設けた金網のおりに入ったこともありました。

 中川の収容所に学校もできました。しかし、通ったのはわずかの日数です。「学校に入ったけれど、地元の生徒とあまり言葉が通じず、行かなくなってしまいました」と金城さんは語ります。

 収容所の暮らしに飽き足らず、金城さんは仲間と那覇の様子を見に行きました。

 《私たちは収容所生活やマラリアが嫌になり、自由が欲しくなりました。生まれ島が恋しくなり、私と兄の2人、知り合いの2人の計4人で収容所から越境して那覇を目指しました。中川の収容所を後にして2日目に国場の部落に着きました。》

 「怖いもの知らずでしたね」と金城さんは話します。10・10空襲とその後の激しい地上戦で那覇の様子は一変していました。

 「残っているコンクリートの建物は天妃小学校くらいでした。国場は、山はそのままの形で残っていましたが、それ以外はどこがどこなのか分からなくなっていました」

 破壊された故郷に衝撃を受けた金城さんらは米軍のトラックに乗って嘉手納を経て中川に戻りました。収容所暮らしは1946年の初めまで続きます。