慰霊碑に家族の名刻まれる 金城潔さん 収容所で(60)<読者と刻む沖縄戦>


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「国場慰霊の塔」の刻銘板に刻まれた金城さんの家族の名前

 各地の収容地区にいた真和志村(現那覇市)の住民に対し米軍は1946年1月18日、摩文仁村(現糸満市)米須や真壁村(現糸満市)糸洲への移動を命じます。1月下旬から移動は本格化します。金武村(現金武町)中川にいた金城潔さん(89)=那覇市=の移動先は糸洲でした。

 摩文仁一帯には地上戦で亡くなった人々の遺骨が散乱していました。村民は遺骨を収集し「魂魄の塔」を建てます。

 「私も遺骨収集を手伝いました。造っている途中の魂魄の塔も見ています」と金城さんは語ります。

 真和志への帰村が許されたのは47年1月です。金城さんも国場に戻ります。長男、次男の兄2人は無事に復員しました。

 私立開南中学校に通っていた三男の栄次郎さんは戻ってきませんでした。生徒は開南鉄血勤皇隊・開南通信隊に動員されました。栄次郎さんも戦場で命を落としました。金城さんには栄次郎さんに対し「申し訳ない」という思いが残っています。

 「私たちが国場を離れた後、兄は家族に会うため国場に戻ってきたそうです。かわいそうなことをしました」

 国場集落の丘「上ヌ毛」に建立された慰霊碑に父の蒲助さん、母カマさんらと共に栄次郎さんの名が刻まれています。

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 金城潔さんの体験談は今回で終わります。次回から収容地区から帰村した後の体験を紹介します。