「首里の(すいぬ)御城の(うぐしくぬ)元姿(むとぅしがた)見欲(みぶ)しや 人並の(ひとなみぬ)寄進(きしん) 許(ゆる)ち給(たぼ)うれ」。名刺に毛筆で記した端正な文字は、首里城への思いや級友らへの思いであふれていた。75年前、沖縄師範学校本科1年だった儀間昭男さん(92)は、鉄血勤皇隊の野戦築城隊として首里城地下に造られた日本軍第32軍司令部の壕堀りに駆り出された。
1945年3月31日、首里城近くにある留魂壕の前に、校長をはじめとした全職員と生徒が集まり、32軍の駒場という少佐から訓示を受けた。「敵の本島上陸が確実になった。職員、生徒一同は天皇陛下を安心させるよう努めるように」
陣地壕構築のほか、壊れた橋や道路の補修工事が主な仕事だった野戦築城隊は、師範学校の退避壕だった留魂壕で寝泊まりしていた。朝には司令部壕の第5坑道入り口から入り、作業に取り組んだ。留魂壕と坑道入り口までを行き来する時、いつ飛んでくるか分からない砲弾の危険を常に感じていた。近くのトイレに行った際もズボンのバンドを締めずに、ズボンを抱えて壕に飛び込んでいた。
32軍壕では、掘り出した土砂や石をトロッコで運搬し、外に運び出した。「壕の中は音も何もない。とにかく作業はひっきりなしだった。奥の方は入れなかったはずだよ」とかすかな記憶をたどった。
地形が変わるほど米軍からの攻撃を受け、首里城は破壊された。どうやって32軍壕から出たのか、その時のことは覚えていない。「動物みたいに危険を察知して、逃げることしかできなかった。あの時、人間の気持ちではなかった」。壕から出て南部に向かう道のりで、戦争のむごたらしさを初めて目の当たりにした。「道という道は全部死体で埋まっていて、手足がなくなって泥をかぶっていた」。386人動員された鉄血勤皇師範隊は、226人が犠牲になった。
75年が経過しても、同級生や師範学校の寄宿舎から毎日見詰めた首里城の姿を忘れたことはない。昨年の首里城火災で、炎で明るんでいた空を見た。「沖縄戦で一度失った首里城を、また失ってしまった」
あれから1年を迎える中、一刻も早い首里城の再建を願っている。新型コロナウイルスの影響に伴う特別定額給付金10万円を再建のために全額寄付した。「僕らはね。学校が首里城のそばにあったからね。生活の場だったから。首里城に対する思いは誰よりもある。もう一度、元の姿を見たいさあ」。横顔が少し寂しげだった。
(阪口彩子)