移住、逃亡、自分探し―現実であれフィクションであれ、来沖には観光以外にもいろいろな理由がある。米軍統治時代の初期には、台湾や本土、奄美から密貿易業者が沖縄にやって来た。またフィクションの中では、夢破れて仕事に疲れた若者、負け組の酔っぱらいにヤクザ、殺人犯のほか、琉球に理想を夢見る大和の侍から旗本退屈男、金田一少年まで、さまざまな動機や背景が描かれている。
そして劇場用アニメ『河童のクゥと夏休み』(2007)では、ついに河童までが沖縄に姿を現した。これは江戸時代から石の中に閉じ込められていた河童の子が、東京郊外に暮らす小学生の康一に拾われて現代によみがえるという物語だ。河童にはクゥという名前がつけられ、康一の家に居候しながらだんだん家族の一員となってゆく。そして河童民話の伝わる岩手県の遠野へ出掛けるが、もはや仲間を見つけることはできない。
やがてクゥの存在は近隣に漏れ、情報を嗅ぎつけたマスコミが康一の家を取り囲み、見物人も大勢押し寄せる。やむを得ずテレビのワイドショーに出演したクゥは、300年前に殺された父親の干からびた右腕と対面することになる。念力でスタジオのカメラや照明を破壊したクゥは父親の腕を抱えて逃げ出すが、どこへ行っても人だらけで車の往来も激しい東京に心休まる場所はなかった。
ある日そんなクゥのもとに、「こっちこい、すぐこい」という一通のはがきが届く。それはテレビでクゥの様子を見た沖縄のキジムナーからのものだった。河童とキジムナー、それに奄美のケンムンは同系統の種族とされるが、本作のキジムナーは人間の姿に化けて暮らしている。ちなみにうちなーぐちを話すキジムナーの声を担当しているのは、ガレッジセールのゴリだ。
場面が沖縄に変わると、青い海に緑豊かなやんばるの森、そして赤瓦の家、屋根上のシーサーといったお約束の風景風物が描かれる。ガジュマルの巨木がそびえる鬱蒼(うっそう)とした森の奥には清流があった。クゥは土地の神に許しを乞い、しばらくここで暮らすことにする。本土/東京と沖縄を対比的にとらえ、沖縄の自然や時間の流れ、人の温かさを理想化する視線は、沖縄ブームをあおる言説や観光産業だけでなく映画やアニメの世界にもしっかり根を張ってきた。本作でも車が氾濫する交通事情や軍事施設、環境破壊、経済・地域格差といった沖縄の諸問題は捨象されている。切り取られ、仮構された沖縄のイメージに癒やされる河童の姿に、どんな現実と未来が見えるだろうか。
(世良利和、岡山大学大学院非常勤講師)