米軍人が起こした交通事故と米憲兵隊の事故処理に憤慨し、コザ市(現在の沖縄市)で民衆が車両を焼き払う「コザ騒動」があった1970年12月20日未明、琉球列島米国民政府(USCAR)のジェームス・B・ランパート高等弁務官(米陸軍中将)が車で現場を訪れていたことが11日までに分かった。当時、高等弁務官第一等特技官を務めていた、主和津(シュワルツ)ジミーさん(80)=北谷町=が「私が車で案内した」と初めて証言した。
(宮城隆尋)
高等弁務官の騒動時の行動は、これまでほとんど明らかになっていない。USCARが騒動直後に打ち出した治安対策の強化などについて、識者は「(ランパート氏が)現場を見たことが関連しているとも考えられる」と話し、公文書の解釈に影響を与える可能性も指摘している。
主和津さんは伊江島出身で、10代で米国の家庭に養子に出た。1967年に沖縄に戻り、高等弁務官のそばで通訳や車の運転などさまざまな業務に当たった。 コザ騒動のあった12月20日未明、米側から連絡を受けた主和津さんは高等弁務官を車に乗せた。「大きな報告は弁務官まで行くが、普通は憲兵隊に任せる。直接現場へ出掛けることはなかなかない」と驚いた。
高等弁務官の官舎があった北中城村石平から軍道24号(現在の国道330号)を通り、コザの街に向かった。道路に人だかりができ、火の手が上がっているのが見えたという。群衆が車両をひっくり返し、火をつけ始めた午前2時半以降とみられる。この頃、コザ市の上地、島袋三差路(現山里三差路)などで群衆と琉球警察、米憲兵隊が向き合っていた。
「(群衆が)殺気立っていたので大通りを避けた」と主和津さんは振り返る。コザ市に差し掛かると人だかりで軍道は通れず、裏通りへ回って嘉手納基地の第2ゲートへ向かった。コザ騒動の現場近くを通過する際、車窓から群衆の熱気が伝わってきたという。
住民の一部はこの時、第2ゲートから基地内になだれ込み、小学校に火を放つなどしている。車中でランパート氏と交わした言葉は詳しく覚えていないが、険しい表情をしていたという。
この年9月に糸満町(現糸満市)で米兵が主婦をれき殺し、無罪になった。美里村(現沖縄市)で毒ガス撤去を求める県民大会が12月19日に開かれるなど、米統治下の人権軽視に対する反米感情が高まっていた。