「価値観変わった」研究の道から教員に 震災時に仙台市在住の内間さん<刻む10年 沖縄から、被災地から>1


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「無事ですみません」…支援活動を始めても消えなかった「罪悪感」 震災時に仙台市在住の内間さん<刻む10年 沖縄から、被災地から>から続く)

東日本大震災から10年を前に、9年暮らした仙台での生活や被災地への思いを語る内間早俊さん=2月13日、浦添市の昭和薬科大付属高校

 東日本大震災の直接的な被災を免れたことで、罪悪感を抱えるようになった内間早俊さん(38)=浦添市出身。当時所属していた東北大大学院の研究室は、震災2年目から、宮城県の沿岸15市町村の住民の被災体験を方言で残す取り組みを始めた。内間さんもチームの一員として体験の聞き取りを行った。地震と津波の恐怖、家族を失った悲しみ、流出したふるさとへの思い―。涙なしに語れる住民はいなかった。

 記憶を記録する研究の重要性と、時間的にも精神的にも話し手に負担をかけてしまう罪悪感。「震災の傷はまだ癒えていない。今やるべきことなのか」と葛藤した。このまま研究の道を続けられるのか。迷いが生じた。

 一方で、震災前から仙台市内の私立高校や大学、専門学校で非常勤講師をしており、教えることの楽しさを感じていた。未来のある生徒たちと切磋(せっさ)琢磨(たくま)できることが魅力だった。2014年のある日、高校時代の恩師から母校の教員にならないかとの電話を受ける。研究者か教員か。決心がつかないまま試験を受け、昭和薬科大付属高校(浦添市)の国語教員に採用された。15年3月、9年過ごした仙台を離れた。

 東日本大震災から間もなく10年。この間、日本各地で大きな災害が起きた。研究室が行った、医療支援者向けの方言パンフレット作りの経験は、16年の熊本地震でも生かされ、同様のものが作成された。社会の中で実利として研究を生かすという重要性を痛感した。だが、自分自身は被災者と向き合う覚悟はいまだに持てない。

 「震災は自分の価値観や生き方を変えた」と言い切る内間さん。研究者としての道に迷ってふさぎ込んだ時期もあったが、教員としてスタートを切り、最近は仕事への手応えも感じつつある。「震災が起きてなければ、沖縄で教員をやることはまずなかった」と振り返る。

 被災地で聞き取り調査をしていた時、住民たちが「忘れ去られるのは嫌だ」と語る姿が印象に残っている。「沖縄戦もそうだが、無関心が一番怖い。沖縄の人たちにも少しでも東北のことを知ってほしい」
 (前森智香子)