「無事ですみません」…支援活動を始めても消えなかった「罪悪感」 震災時に仙台市在住の内間さん<刻む10年 沖縄から、被災地から>1


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東日本大震災の被災地で、住民から体験の聞き取り調査をする内間早俊さん(左)=2014年、宮城県名取市(本人提供)

 被災地のためというより、自分自身の罪滅ぼしだった。2011年6月、浦添市出身の教員内間早俊さん(38)は、宮城県石巻市などの沿岸部でがれき処理のボランティアに汗を流した。当時は東北大大学院の博士課程に在籍する仙台市民。ただ、3月11日は帰省しており、直接の被災を免れた。「自分だけ無事ですみません」。罪悪感をかき消すように、必死でスコップを振るった。

 琉球大で修士課程修了後、言語学・琉球方言の研究者を目指し06年に東北大大学院へ。知らない土地へ行き、さまざまな人と地元の言葉を通じて交流するフィールドワークが楽しく、このまま研究の道を進むつもりだった。そんな中、東日本大震災が起きた。

 すぐに仙台へ戻ろうとしたが、指導教官から「インフラや物資が整っていない。今来られても、かえって負担になる」と制される。沖縄では東京電力福島第1原発事故の報道が中心。宮城の状況がはっきりせず、もどかしく感じた。仙台へ戻ったのは4月下旬だった。

 2カ月ぶりの研究室は、自分たちのことよりも被災地のための活動に奔走していた。県外から訪れる医療支援者向けに、被災地の方言をまとめたパンフレット作りに取り組んでいた。「気持ちが追いつかない」。震災時に宮城にいなかった後ろめたさも相まって、研究室から足が遠のいた。

 その代わりに「罪滅ぼしの感覚で」向かったのが石巻市などの沿岸部だった。自ら車を運転し、がれきや土砂が積まれている道路を通り、泥かきのボランティアに精を出した。それでも気持ちが晴れることはなかった。

  (前森智香子)

「価値観変わった」研究の道から教員に 震災時に仙台市在住の内間さん<刻む10年 沖縄から、被災地から>
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 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から間もなく10年を迎える。この間、日本各地で大きな災害が発生し、新型コロナウイルスの感染が拡大するなど、人々の生活が変化している。震災後、沖縄に帰る選択をした人、今も東北で暮らし続ける人がいる。故郷を離れ、沖縄への移住を決めた人も少なくない。県関係者が刻んできた時の流れを追い、震災後の今を描く。