人との交流が不安癒やす 震災後に宮城から単身移住した星さん<刻む10年 沖縄から、被災地から>6


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自らのルーツを記した本を紹介する星孝枝さん=2日午前、那覇市小禄

 東日本大震災発生時、たまたま沖縄を旅行していた星孝枝さん(80)=那覇市=は子どもらに勧められるまま、沖縄に移り住んだ。友人も知人もいない沖縄での1人暮らしだったが、人々とのつながりは生きがいとなった。「私のような者に温かい心を寄せてくださる人々がいて、何よりもありがたく、うれしく思う」。つらい記憶も重なり、受け入れてくれる人々の思いをかみしめている。

 「海から離れて。津波が来ます」。巨大地震が襲ったあの日、石垣島の海辺にたたずんでいた星さんの耳に警報音とともに避難を呼び掛ける声が飛び込んできた。宿泊先に戻ると、地震は住んでいた宮城県などを襲っていた。

 その日のうちに那覇に移動した。その後、子どもたちに手配してもらい、自宅のあった仙台に帰ることができた。心配して家に入ったが、料理酒が倒れているだけで被害は何もなかった。だが、娘と息子から「放射能が怖いから沖縄に避難して」と助言されると、3月末には那覇に住所を移した。1カ月もしないうちに移住を決断できたのはある事情があった。

 1940年4月に生まれた星さん。生後5カ月で母と死別し、父も2歳の頃に亡くなった。親族の知り合いに育てられ、苦労しながらも大学を卒業し、家庭科教諭として高校で教壇に立った。生徒たちは誰にでも分け隔てなく接する星さんを慕い、今でも年賀状をやりとりする教え子が何人もいる。結婚すると夫に暴力を振るわれた。「何も自由が無かった」。友人らとの交流も許されなかった。2人の子どもが自立すると、家を出て、離婚した。それが転居しやすい理由だった。

 孤児となった自分のルーツを探るため、父や祖父について自ら調べて本にまとめるなど、常に行動してきた星さん。自分のことを誰も知らない沖縄で気兼ねなく暮らすことができたが、選んだのは他の人々のためにボランティア活動をすることだった。

 震災後、70歳での単身転居に不安でいっぱいだったが、出会った人々とのつながりに癒やされた。転居してすぐにコープおろくのボランティア団体に入り、その後は那覇市食生活改善推進協議会に加入した。17年からは同市宇栄原の子どもの居場所で読み聞かせボランティアを始めた。インターネットで宮城県人会を探し、会に行ってみると教諭時代の教え子と再会した。

 新型コロナの影響で奉仕活動は休止状態だが、出会った人々とは今も連絡を取り合う。「自分みたいな人を受け入れてくれた。それが一番うれしかった。自分のできることはやりたい」。きっかけは震災だったかもしれないが、人と人とのつながりに感謝する日々を送る。
 (仲村良太)

 

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