【ワークシート付き】地域の沖縄戦知ろう! 本島南部編


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ

20まんにんあまりが犠牲ぎせいになった沖縄おきなわせん。この特集とくしゅうでは沖縄おきなわ本島ほんとう南部なんぶ地域ちいき紹介しょうかいします。沖縄おきなわせん激戦げきせん八重瀬やえせちょう南城市なんじょうし与那原よなばるちょう糸満いとまんについてりゅうちゃんと、長年ながねん沖縄おきなわり、自然しぜんあいする「がじゅまーる」さんが案内あんないやくとなって解説かいせつします。ともだちやまわりの大人おとなたちと地域ちいき戦争せんそうまなんで、戦跡せんせきめぐってみませんか。

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八重瀬やえせ南城なんじょう 与那原よなばる日本にほんぐん住民じゅうみん

 

 いま読谷よみたんそんあたりから沖縄おきなわ本島ほんとう上陸じょうりくしたべいぐん日本にほんぐん首里しゅり降伏こうふくせずに、南部なんぶ撤退てったいしたよね。南部なんぶはげしいたたかいがあったのかな?

  犠牲ぎせいしゃ南部なんぶくにつれ、えていったのが特徴とくちょうさぁ。べいぐん本島ほんとう上陸じょうりくするまえの1945ねんがつ30にちに、具志頭ぐしちゃんそんげん八重瀬やえせちょう)を海上かいじょうから攻撃こうげきした。上陸じょうりくする場所ばしょ具志ぐしちゃんそんだとせかけたんだ。だけど、べいぐん読谷ゆんたん山村ざむらげん読谷よみたんそん付近ふきんから上陸じょうりくして、日本にほんぐん防衛ぼうえいせん次々つぎつぎやぶってなんした。いよいよ首里しゅりじょう地下ちかにある日本にほんぐん司令しれいせまり、司令しれいまもるために東西とうざい配置はいちした日本にほんぐん最後さいご防衛ぼうえいラインに到達とうたつした。西にし現在げんざい那覇なは天久あめく真嘉比まかび安里あさとひがしいま西原にしはらちょう与那原よなばるちょうだね。だからこの地域ちいき戦闘せんとうはげしかったんだね。

いま与那原よなばるちょうきたほうにあるうん玉森たまむいは、そのときにちべいはげしくたたかった場所ばしょなんだよ。はげしく砲撃ほうげきたたかいを5がつ13にちから8日間ようかかんひるよるつづけた。その結果けっかべいぐん占領せんりょうした。あたりいちめん野原のはらになったさぁ。

南部戦線で傷を受けて座り込んでいる子ども(1945年6月21日)=平和祈念資料館提供

 おおくの住民じゅうみんまれたのかな?

 そうさ。日本にほんぐん南部なんぶ撤退てったいめたころ住民じゅうみん知念ちねん半島はんとう避難ひなんするようにわれていたけど、その命令めいれいとどいていなかったし、混乱こんらんしていた。南部なんぶには各地かくち自然しぜんごうや、ひとったごうおおくある。せまべいぐん砲撃ほうげきわれるように、住民じゅうみんごうげた。だけど、首里しゅりから南下なんかした日本にほんぐんが「ごう使つかうから」とって住民じゅうみんしたり、食料しょくりょううばったりした。スパイ容疑ようぎ殺害さつがいされたひとや、強制きょうせい集団しゅうだん(「集団しゅうだん自決じけつ」)にまれた住民じゅうみんもいたし、まどなか砲撃ほうげきにやられたひともいた。

一方いっぽう日本にほんぐんがいなかった知念ちねん半島はんとう現在げんざいなん城市じょうし東側ひがしがわにちべい激戦げきせんとはならずに、犠牲ぎせいしゃすくなかったんだ。でも、みなみみなみへとつづけた住民じゅうみんは、にちべいたたかいのえになったんだよ。

 当時とうじどもはどうだったんだろう?

 沖縄おきなわせん当時とうじは、10だいどもや若者わかものたちも沖縄おきなわせんえとなったよ。学徒がくとたいっていたことあるかい? 日本にほんぐんは、10だい若者わかものたちも、戦力せんりょくとしてあつかった。「沖縄おきなわ師範しはん健児けんじとう」や「ひめゆりのとう」「白梅しらうめとう」は、戦争せんそうまれて犠牲ぎせいになった若者わかものたちを慰霊いれいするためにてられたんだ。

 

学徒がくと動員どういん  沖縄おきなわせん当時とうじ日本にほんぐん兵士へいし不足ふそくしており、10だいどもも戦争せんそうにかりされました。県内けんない師範しはん学校がっこう中学校ちゅうがっこう男子だんし生徒せいと(14〜17さい)のうち、上級生じょうきゅうせいは「鉄血てっけつ勤皇きんのうたい」として、ぐん物資ぶっしはこんだり、食料しょくりょう調達ちょうたつしたりしました。なかには爆弾ばくだんかかえて、べいぐん戦車せんしゃ突撃とつげきさせられたものもいました。下級生かきゅうせいは、戦争せんそう状況じょうきょうなどをつたえる電報でんぽうはこ通信つうしんたいれられ、砲撃ほうげきなかはしまわらなければいけませんでした。一方いっぽう女子じょし学生がくせい看護かんご要員よういんとして動員どういんされました。ごうもうけた野戦やせん病院びょういん負傷ふしょうした日本にほんへい手当てあてや世話せわをしなければいけませんでした。

 


 

糸満いとまん司令しれいかん死後しごたたかつづ

 

 糸満いとまん平和へいわ祈念きねん公園こうえんやひめゆりのとうなど戦跡せんせきがたくさんありゅよね。

 そうだねぇ。当時とうじ真壁まかべ喜屋武きゃん摩文仁まぶにの3そんだったいき沖縄おきなわせん最後さいご激戦げきせんおおくのひとが、南部なんぶいのちとしたんだよ。

1945ねんがつ21にちよる日本にほんぐん作戦さくせん会議かいぎひらき、南部なんぶ撤退てったいすることをめた。日本にほん本土ほんど決戦けっせんをするまでの時間じかんかせぎをしようという作戦さくせんさぁ。日本にほんぐん武器ぶき弾薬だんやくはなくなり、軍隊ぐんたいとしてたたかちからもなくなっていたけど、1にちでもながく、べいぐん沖縄おきなわきつけておこうとしたんだよ。

 住民じゅうみん南部なんぶげているひとおおかったよね?

 現在げんざい糸満いとまん一帯いったい沖縄おきなわせん当時とうじおおくの住民じゅうみんげていた。さらにもともとんでいた地元じもとひと、どんどんなんしてくる日本にほんぐん、それをべいぐん南部なんぶぐん民間みんかんじんもいる混乱こんらんした戦場せんじょうになったんだよ。

がつ11にち午後ごごべいぐんだい10ぐん司令しれいかんバックナー中将ちゅうじょう日本にほんぐん降伏ごうぶくするようにけた。けれども日本にほんぐん降伏こうふくしなかった。6がつ18にちにバックナー中将ちゅうじょう戦死せんししたんだ。すると、住民じゅうみん軍人ぐんじんわないべいぐん差別さべつ攻撃こうげきはげしくなった。

がつ22にち日本にほんぐんだい32ぐん司令しれいかん牛島うしじまみつる摩文仁まぶに自決じけつした。べいぐんは7がつ2日ふつかに「琉球りゅうきゅう方面ほうめん作戦さくせん」の決着けっちゃく宣言せんげんした。だけど、それで戦闘せんとうわらなかった。牛島うしじまみつるは「最後さいごいっぺいまでたたかえ」とのこして自決じけつしていた。だから、日本にほんへいたちは降参こうさんせず、べいぐん攻撃こうげきつづけ、掃討そうとうせんつづいたんだ。

 日本にほんぐん司令しれいかんがいなくなっても戦争せんそうわらなかったんだね。

当時とうじ日本にほんぐん兵士へいし降伏こうふくしたり民間みんかんじんべいぐん保護ほごされたりすることをきんじていた。められたひとたちはみずかうみげたり、しゅりゅうだん爆発ばくはつさせたりして強制きょうせい集団しゅうだん(「集団しゅうだん自決じけつ」)にまれていったんだ。いま糸満いとまん北西ほくせい戦争せんそうくなったひと割合わりあい比較的ひかくてきひくいけど、中部ちゅうぶ東部とうぶではたかい。にちべい激戦げきせんがあった地域ちいき日本にほんぐん最後さいごまでてこもった地域ちいきは、住民じゅうみんおおくのひといのちうしなったんだよ。


ごうされ転々てんてん実家じっかもどびる

山城やましろタケさん(糸満いとまん波平なみひら、78さい

山城タケさん

べいぐん上陸じょうりくわたし祖父そふははおとうといもうとの5にんみなみ波平なみひら部落ぶらくないにあるサーターヤーごう避難ひなんした。ある製糖せいとう高射こうしゃほうちがえたのかべいぐん製糖せいとう目掛めがけて爆弾ばくだんとした。ちかくにはガジュマル並木なみきがあり、爆撃ばくげきるとえだくついたままのあし肉片にくへんがぶらがっていた。

戦争せんそうはげしくなったころ、日本にほんへい担架たんか負傷ふしょうへいせてごうにやってた。「ぐん使つかうのではやなさい」とってわたしたち住民じゅうみんした。わたしたち一家いっかいそいで糸洲いとす部落ぶらくのウッカーガマにかったが、ガマはすでに地元民じもとみんでいっぱいで、かくれる場所ばしょがなかった。ごうおくみずながれていてすわることができない。仕方しかたがないのでわたしたちはくちあたりにっていた。

すうじつかくれたが、祖父そふが「どうせぬなら自分じぶん部落ぶらくのう」とうのでみなみ波平なみひら祖父そふ実家じっかもどった。屋敷やしきないあいだ石積いしづみのかこいをつくってかくれた。

いもうとおとうとちいさかったので食料しょくりょう調達ちょうたつわたし仕事しごとだった。よる急須きゅうすって井戸いどみずくみにくと、どろまみれのあしのない兵隊へいたいみずしがったので急須きゅうすませてあげた。みち死体したいだらけでからだふくじょうがっていた。

ある日本にほんへいがやってて「着物きものしてほしい。どうせ日本にほんけるから民間みんかんじんふく着替きがえる」とってきた。はは女性じょせいよう着物きものを1まいわたした。

わたしたちは部落ぶらくないべいぐん保護ほごされてびたが、みなみげた部落ぶらくみんたちは避難ひなん場所ばしょがなく、やられてしまったようだ。

山城やましろタケさんの証言しょうげんは、2015ねんがつ26にちづけ18めん沖縄おきなわせん70ねん 戦場せんじょうをたどる 市町村しちょうそん沖縄おきなわせん(5)」からさい掲載けいさいしました。

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