20万人を超える人々が犠牲になった沖縄戦からことしで76年になります。今月23日は「慰霊の日」。過酷な戦で命を落とした人たちへ祈りをささげるとともに、平和とは何かを考える日でもあります。琉球新報のマスコットキャラクターりゅうちゃんは、読谷村史編集係の中田耕平さん(41)の案内で、米軍の上陸地の一つ・同村の戦跡や記念碑・像などを巡り、戦前は日本軍、戦後は米軍によって占領され「軍事要塞化」された村の歴史を学びました。
身近な場所にも軍隊の「跡」
日本軍による読谷村の陣地づくりは1943年夏、日本軍が住民を動員して陸軍北(読谷山)飛行場(のちの読谷補助飛行場)を造ったことに始まります。米軍は45年4月1日、読谷・嘉手納・北谷の海岸線一帯に上陸しました。
米軍の上陸時、日本軍はすでに本島南部へ配置換えとなり、米軍は反撃はほとんど受けないまま「無血上陸」したとも表現されています。しかし、米軍の砲爆撃などで2002人もの村民が犠牲となりました。「兵隊の血は流れていなくても、住民の血はたくさん流れてりゅじゃないか」。りゅうちゃんは思いました。
世界遺産の座喜味城跡もかつては日本軍が駐屯し、「10・10空襲」では米軍機から激しい攻撃を受けました。飛行場のあった座喜味集落には、今も飛行機を収納する格納庫「掩体えんたい壕」が残っています。米軍は沖縄や本土攻撃の拠点とするため、北飛行場を奪いました。座喜味には、国のため天皇陛下のために戦って死んだ軍人や軍属をたたえる碑「忠魂碑」も残っています。
「日本軍の駐屯と北飛行場があったことで米軍が上陸し、読谷の地から多くの住民を巻き込んだ沖縄戦が始まりました。決して忘れてはいけない事実です」。中田耕平さんの言葉に、りゅうちゃんもうなずきます。
生死を分けた「ガマ」
村内では、米軍の攻撃による犠牲だけでなく、「集団自決」(強制集団死)で命を落とした住民もいました。波平集落にある自然壕の「チビチリガマ」には当時約140人が避難していましたが、軍国主義の教育によって敵の捕虜になることを許されていなかった住民たちは、日本兵らから「米軍に捕まったら殺される」と聞かされた恐怖心から家族や親せき同士で殺し合う「集団自決」に追い込まれたのです。犠牲になった83人のうち、15歳以下の子どもが45人も含まれていました。
「自決と言っても、子どもたちには自ら死ぬという考えはありません。当時の軍国主義の思想は住民に大きな影響を与えました。また、日本軍に仕えていた人が共に避難していたこと、様子を見ようとガマを出た住民を、米軍が日本兵と見誤り射殺したことなど、数々の出来事が重なって住民たちはパニックになり、子や孫に手をかけなければならない状況に追い込まれたのです」。中田さんは語ります。
チビチリガマで起きた事実は戦後38年間、話されることはなかったといいます。ガマの中には、遺骨がまだ残されています。訪れた人たちによって供えられた千羽鶴が雨に濡れていました。りゅうちゃんはガマに向かってそっと手を合わせました。
チビチリガマから少し離れた「シムクガマ」では、懐中電灯を消して暗闇を体験しました。りゅうちゃんは体にまとわりつく大きなヤブ蚊を振り払いながら、当時の住民が置かれた状況に思いをはせました。ガマの総延長は2.5キロあり、当時千人が避難していたそうです。
シムクガマでは「集団自決」は起きていません。ハワイ帰りの男性たちが「米軍は住民を殺さない」と説得し、避難していた人々は壕を出て米軍の収容所に送られたのです。
ガマの中に建てられた「救命洞窟之碑」との言葉を目にしたりゅうちゃん。先に訪ねたチビチリガマの事実を思い起こし、思わず言葉を失いました。
【各地域の沖縄戦】