沖縄戦では20万人余りが犠牲になりましたが、みなさんは地域の戦争の跡を見たことはありますか? 今回は、那覇と豊見城、南風原で起こった沖縄戦の特徴は何か、りゅうちゃんとおしゃべり好きな「沖縄そば子さん」が案内役となって解説します。友達や周りの大人たちと地域の戦争を学んで、戦跡を巡ってみませんか?
<那覇>上陸前の年に大空襲
那覇ではどのようにして戦争が始まったの?
米軍が上陸する前に大きな空襲があったわ。1944年10月10日に起きたから「10・10空襲」と呼ばれているの。この空襲で668人が死亡したと言われているわ。
上陸する前からたくさんの人が亡くなっていたんだね。
軍事拠点だけでなく、民間施設も無差別に攻撃したからね。米軍からの空襲が激しくなると日本は「本土決戦」に向けての準備を始めたわ。日本本土に米軍が進攻するまでに米軍の戦力を消耗させたいと考えた日本は、沖縄で敵を食い止めようとしたの。1944年8月、沖縄に配備された日本軍(第32軍)の牛島満司令官が到着。沖縄には各方面から多くの部隊が集められることになった。けどね、日本は急に方針を変更して沖縄にいた部隊の一部を台湾防衛のために移動させたの。その結果、沖縄の兵力は元の兵力の3分の2に減ってしまったわ。米軍とまともに戦える状態ではなくなってしまったの。でも、本土決戦を遅らせるという命令が下っていたから、住民を巻き込んで持ちこたえる持久戦をすることになったのよ。沖縄は本土の「捨て石」になったの。
米軍上陸が迫る中で、学生も動員されたわ。このころから県内の全中等学校生徒が「鉄血勤皇隊」、女学校生が「看護要員」として動員されるようになったの。男子学生は県内各地に飛行場を造ったり、陣地を造ったりして、米軍の攻撃に備えたわ。
米軍は1945年4月1日に本島中部に上陸。日本軍司令部がある首里を目指して南下してきたわ。軍司令部の西側にある安里の慶良間チージ(52高地、シュガーローフ)では5月12日から1週間、日米両軍による攻防戦が展開されたけど、米軍に制圧された。7日間の戦いで約5000人以上が死んだと言われているほど、激戦だったそうよ。米軍は日本軍司令部の東側の運玉森も占拠したため、日本軍は劣勢に立たされ、司令部がある首里から撤退することになったの。
<豊見城>食料 徒歩で糸満まで
首里から撤退することになった日本軍はどうしたの?
軍司令部を首里から摩文仁に移すことにした日本軍は糸満に向かって移動したわ。日本軍が南部に向かう道は日本兵や住民でごった返していたそうよ。当時は兵隊と一緒にいるのが安心だと思って住民もついて行ったのね。南部に向かう途中にある一日橋や山川橋、真玉橋は米軍の艦砲射撃が容赦なく撃ち込まれて「死の橋」と呼ばれるほどだったわ。
地上からだけでなく、海からも爆弾が飛んできたんだね。
日本軍が南部に撤退することが決まってから、豊見城村(現豊見城市)の村民は軍の命令で物資の運搬などをしたわ。豊見城村内にあった部隊の壕から主に米などの食料を糸満まで歩いて運んだの。約60キロの米俵を担いで運ぶのはそりゃ大変だったそうよ。爆弾が飛び交う中、昼夜を問わず運んでいたから運搬の行き帰りの途中で亡くなった人もいたわ。
6月4日には米軍が小禄の鏡水海岸に上陸。5日に真玉橋を渡って南下してきた米軍部隊と共に、字豊見城にあった海軍司令部壕に向けて進攻してきたわ。糸満に向かっていた住民の中には米軍に捕らえられた人も多かったけど、米軍に包囲されて多数の犠牲者が出たのよ。米軍に捕らえられた人たちは軍人と住民に分けられて、字伊良波などに設置された収容所に収容されたわ。
<南風原>女学生 病院壕に動員
豊見城には海軍司令部壕があったんだよね。南風原にはどんな壕があったの?
南風原には陸軍病院壕があったのよ。元々は那覇にあったんだけど、10・10空襲の後に南風原の国民学校に移動したの。その後、黄金森を中心に約30の壕を掘って、米軍の艦砲射撃が始まった1945年3月下旬に各壕に移動したわ。壕の多くが行き止まりの壕だったから、酸欠による死の危険があったり、未完成で使えないものもあったりした。現在は一つの壕だけ公開されているわ。
うわー。過酷な環境だったんだね。
南風原の陸軍病院には、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の女学生222人(ひめゆり学徒隊)が、看護のために動員されたわ。
4月1日に米軍が上陸すると、前線から負傷兵が次々と送られてきて、生徒たちは寝る時間もほとんどないまま働き続けたのよ。生徒たちは負傷兵の看護のほかに、水くみや食料の運搬、伝令、死体埋葬などもしたわ。
首里での攻防戦に日本軍が敗れて米軍が迫ってくると、病院にも軍司令部から南部に撤退するよう命令が下ったわ。軍医や看護婦、女子学徒や歩ける患者は壕を出て南部へ向かったんだけど、重傷の患者には猛毒の青酸カリが配られたの。自決を強制されたのね。壕を出た人たちも砲弾が飛び交う中を逃げまわらないといけなくなってしまったわ。たまったもんじゃないわよね。
南部撤退の命令を受け、野戦病院を出ることになった女子学徒はどうなったのでしょうか? 当時の女子学徒たちは「捕虜になると米兵に辱めを受けた後、殺される」と日頃から教えられていました。女子学徒たちを指導していた教師や兵士の中には「何があっても死んではいけない」と諭す人もいましたが、女子学徒の中には恐怖と絶望の中で自ら命を絶つ人も多くいました。
<首里の防衛戦に従事>
撤退させず守備命令 翁長安子さん(那覇市首里、86歳)
1945年2月末、県立第一高等女学校2年生だった私は、真和志村民全員での大宜味村への疎開に加わらず、一人自宅に残った。「お国のために働くことが正しいことだ」との思いからだった。3月31日、識名の沖縄特設警備隊第223中隊「永岡隊」に炊事係として従軍した。識名の集落には、疎開できなかったお年寄りらだろうか、まだ住民が残っていた。
4月に首里一帯の守備で今の沖縄都ホテル付近の久保田山陣地壕に移った。5月に入り米軍の攻撃は激しくなり、やがてシュガーローフで米軍の勢力が強くなったころ、壕から大道森(ハーフムーンヒル)に砲台を設置する様子も見えた。日本軍の抵抗はほぼなく「軍は全滅したのか」と不安を覚えたものだ。
5月16日夜、安国寺の壕に移動した。27日に南部に撤退した第32軍司令部は「永岡隊は郷土部隊だから最後まで首里を守れ」と命じた。米軍の圧倒的な攻撃に対抗できるわけがない。壕は馬乗り攻撃を受け、戦車砲や火炎放射器、黄リン弾などで内部を破壊された。私は壕内にあった金庫の裏にいて助かったが、兵隊はみんなグチャグチャになって死んでいた。
29日の夜に壕を脱出したが、自分が生きていることが不思議だった。脱出の時、米兵に銃で撃たれてけがもしたが、たくさんの住民の死体が並ぶシチナンダビラ(識名坂)をはいつくばって上り、南部への道を先発隊のいる具志頭を目指して一人歩き続けた。
◇翁長安子さんの証言は、2015年5月29日付16面「沖縄戦70年 戦場をたどる 市町村の沖縄戦(3)」から再掲載しました。
【各地域の沖縄戦】