【ワークシート付き】地域の沖縄戦知ろう! 恩納村の戦跡巡り


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ

恩納おんな村立そんりつ喜瀬武原きせんばる小学校しょうがっこうやく20にん実際じっさい恩納おんなそん戦跡せんせきめぐりました。戦時せんじちゅうおおくのひとひそんだ恩納おんなだけにはべいぐん砲撃ほうげきはげしくびせられました。恩納おんなだけ見渡みわたせる万座まんざもうちかくから當眞とうま嗣長しちょうさん(85)が恩納岳おんなだけでの体験たいけん平和へいわ大切たいせつさをかたりました。だい二護郷隊之碑にごきょうたいでは、瀬戸せと隆博たかひろさんが解説かいせつ谷茶たんちゃ住民じゅうみんなんあとではどもたちが戦時せんじちゅうつい体験たいけんし、ギナンばらトーチカでは崎原さきはら恒寿つねひささんから説明せつめいけました。

◇2016ねんがつ19日掲載にちけいさい

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体験たいけんしゃ當眞とうま嗣長しちょうさん(85さい)>日本にほんぐんからはなれて避難ひなん

 

恩納岳での戦争について語る當眞嗣長さん

沖縄おきなわせん当時とうじわたし恩納おんな国民こくみん学校がっこう高等こうとうの2年生ねんせいで14さいでした。1945ねんがつ23にちは、午前ごぜんちゅうちゅう南部なんぶから疎開そかいしてくるひとたちの荷物にもつみなとまでとどけ、午後ごごには卒業そつぎょうしきおこなうことになっていました。でもそのべいぐんによる空襲くうしゅうはじまり、荷物にもつとどけることも卒業そつぎょうしきもできませんでした。

がつ1日ついたちにはべいぐん上陸じょうりくしました。恩納おんな集落しゅうらくにはちゅう南部なんぶから年寄としよりや女性じょせいどもがたくさんらしていましたが、べいぐん上陸じょうりく山奥やまおくげなくてはいけなくなり、やまにはやくまんにん避難ひなんしました。4がつ12にちごろから恩納岳おんなだけ戦闘せんとうはじまりました。当時とうじ我々われわれ日本にほん絶対ぜったいけないとおしえられていて、日本にほんぐん集結しゅうけつしている恩納おんなだけ頂上ちょうじょうちかくに避難ひなんしたひとたちもいました。べいぐん軍艦ぐんかんからはかんぽうまれ、べいぐん日本にほんぐんあいだはさまれてうしない、避難ひなんしたひとなかおおくの犠牲ぎせいしゃました。

わたしちち防衛ぼうえいたい召集しょうしゅうされて島尻しまじりにいたので、妊娠にんしんちゅうだったははおとうといもうとたちをわたしれて避難ひなんしました。恩納おんなだけ手前てまえたいらな場所ばしょがあり、べいぐんはそこから恩納おんなだけけて迫撃はくげきほうんでいました。わたしたちが避難ひなんした場所ばしょからはその様子ようすることができました。日本にほんぐんが10ぱつてばべいぐんは200も300はつつ。わたしたちは「ひょっとすると日本にほんてないかもしれない」とおもいました。

わたしたちは、日本にほんぐんのいるところはあぶないからと恩納おんなだけから南西なんせいはなれたやま避難ひなんしました。そのおかげでびることができましたが、一家いっか全滅ぜんめつ家庭かていもありました。戦争せんそう絶対ぜったいにやってはいけない。

 


谷茶たんちゃ住民じゅうみん避難ひなんあと>12 斜面しゃめんられ

 

小さな壕が12個ある谷茶住民避難地跡

セミのごえひび恩納おんなそん谷茶たんちゃもりなか木々きぎ合間あいま山肌やまはだをロープをつたってりると、ちいさなかわ沿いの斜面しゃめん直径ちょっけい1メートルほどのあなられていました。沖縄おきなわせん当時とうじ恩納おんなそんんでいたひとちゅう南部なんぶから戦禍せんかのがれて避難ひなんしてひとたちがひそめた「谷茶たんちゃ住民じゅうみん避難ひなんあと」です。恩納おんなそん教育きょういく委員いいんかい文化財ぶんかざい担当たんとう崎原さきはら恒寿つねひささん(36)によると、昨年さくねんつかったごうです。

どもたちは「あれがごう?」とかお見合みあわせました。大人おとな1人ひとりうずくまってはいれるほどのぐち崎原さきはらさんによると、斜面しゃめんられたごうは12つかっています。崎原さきはらさんは「谷茶たんちゃ方々かたがた自分じぶんたちのいのちまもるため避難ひなんするごうつくりました。ここは集落しゅうらくから1キロくらいで、当時とうじみちもないなかあるいてここにました」とかたりました。恩納おんなそんへんさんしつ瀬戸せと隆博たかひろさん(48)は「このごうすでひとでいっぱいだったときは、ほか避難ひなん場所ばしょさがさなければいけない」と説明せつめいしました。

ごう奥行おくゆきがあるものとないものがあり、どもたちは2人ふたりずつごうはいりました。「ここになんにちもじっとしていられる?」とかれたどもたちはごうなかから「無理むり!」とこえげました。5年生ねんせい郷原ごうはらしゅうくん(10)は「せまい。我慢がまんできない。そとたら爆弾ばくだんちてきそうできそうになる。地獄じごくみたい」と沖縄おきなわせん当時とうじ想像そうぞうしながら、感想かんそうはなしました。

 


だい二護郷隊之碑にごきょうたいのひやまひそよる攻撃こうげき

 

第二護郷隊之碑

げっとうはなむかえるぐちからおかのぼるとだいきょうたい慰霊いれいがあります。「きょう」は故郷こきょうまもることを意味いみします。瀬戸せとさんは「きょうたいは、実際じっさいは、やまひそんでよる攻撃こうげきするなど、ゲリラせんをしたんです」と、べいぐんとの兵力へいりょくおおきながあり、まともに戦争せんそうができなかった状況じょうきょう説明せつめいします。

沖縄おきなわせん当時とうじ日本にほんぐん11まんにんたいし、べいぐんやくばいの54まんせんにん兵力へいりょくがありました。だいきょうたいくにがみ大宜味おおぎみひがし中頭なかがみなどから15さいから18さい少年しょうねんたちが召集しょうしゅうされ、やく390にん構成こうせい恩納おんなだけ拠点きょてんとしました。には70にん犠牲ぎせいしゃめいきざまれています。

瀬戸せとさんはのこったひとたちの証言しょうげん紹介しょうかい山中さんちゅうでの訓練くんれんで、じゅう部品ぶひんのネジひとつをとし、つけるようにめいじられて、よるまではいつくばってさがまわったこと。恩納おんなだけから北部ほくぶげるため、喜瀬武原きせんばる現在げんざい県道けんどう104ごうわたさいべいぐんねらわれて、すくなくとも10にんくなったことなどです。

17さいだった具志ぐし川村かわそんげんうるま)の久高くだかしょうえいさんはべいぐん砲撃ほうげきい、「くちすのもつらいけれどここ(くび)からうえがなかったって」と即死そくし状況じょうきょうかたります。東村ひがしそん高江洲たかえす義英ぎえいさんはしょうしてうごけなくなり、軍医ぐんい銃殺じゅうさつされました。戦後せんご頭蓋骨ずがいこついた母親ははおやはずっとつづけました。

証言しょうげんくとおおくのひとが『なんであんなばかばかしいことをやったのか』っておっしゃいます。いのちとしてもこわくないっていうことをまれた教育きょういく時代じだいだったっていうことですね。地元じもと喜瀬武原きせんばる先輩せんぱいがどういう経験けいけんをしたか調しらべて、勉強べんきょうしてください」と、瀬戸せとさんはけました。

 

<ギナンばるトーチカ>日本にほんぐん攻撃こうげき陣地じんち

 

写真を使ってギナン原トーチカの説明をする恩納村教委の崎原恒寿さん

国道こくどう58ごう旧道きゅうどう沿い、恩納おんなむ<そんrt>瀬良垣せらがき海辺うみべ砂浜すなはまると、浅瀬あさせ小島こじまかんでいます。その小島こじま岩肌いわはだ一部いちぶ、コンクリートでかためられた四角しかくまどもある部分ぶぶんが「ギナンばるトーチカ」です。

日本にほんぐんてき攻撃こうげきのために陣地じんちとしてつくった「トーチカ」。崎原さきはらさんはギナンばるトーチカについて「じゅうしたり、なかからてきたりするあなみっつあります」と説明せつめいし、あなからじゅうかまえている様子ようすをイメージした写真しゃしんせました。一方いっぽうで「このトーチカは実際じっさい使つかわれたかどうかは不明ふめいです。日本にほんぐんはトーチカを使つかわずにげたんじゃないかともわれています」とかたりました。

トーチカから砂浜すなはままではやく50メートル。喜瀬武原きせんばるしょうどもたちがおとずれたとき満潮まんちょう時間じかんだったため、トーチカがある小島こじまにはあるいてわたれませんでしたが、しおいている時間じかんにはわたれます。

日本にほんぐんのトーチカは県内けんない各地かくちにあります。崎原さきはらさんは「そんないには4カしょ確認かくにんされています。真栄田まえだみさき真栄田まえだ集落しゅうらく仲泊なかどまりと、このギナンばるトーチカです」とべました。

ギナンばるトーチカをはじめてった4年生ねんせい外間ほかまこころさん(9)はトーチカからじゅう攻撃こうげきすることは「自分じぶんだったらできない」とはなしました。

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