20万人余りが犠牲になった沖縄戦。本島北部の市町村や宮古、八重山の沖縄戦についてりゅうちゃんと、政治や経済の情報通「石がんとーさん」が案内役となって解説します。友だちや周りの大人たちと地域の戦争を学んで、戦跡を巡ってみませんか。
<本島北部>中南部から数万人避難
南部の戦場は砲弾と銃弾が激しく飛び交っていて、多くの住民が犠牲になったんだよね。北部はどんな様子だったんだろう?
北部地域では鉄血勤皇隊よりも半年早く16〜18歳の少年が召集されたぞ。少年たちを召集して「護郷隊」という遊撃隊を編成したんじゃ。元々、本部町に駐屯する宇土部隊は4500人規模の兵力になるはずだったんじゃが沖縄に向かっている途中で米軍の潜水艦に撃沈されてしまったんじゃよ。結局沖縄に来られたのは500人ほどで、戦力が不足してしまったんじゃ。襲撃や待ち伏せなどの手段をとるゲリラ戦を展開しようとしていた日本軍は、兵力の補充のために少年を召集することにした。少年たちは「志願」という名目で召集されて、1944年10月下旬に部隊が編成されると過酷な訓練を受けて戦場に動員されたんじゃ。少年たちは、米軍が駐留する自分の集落を奇襲攻撃して家屋を焼いたり、橋の爆破や米軍陣地を襲ったりさせられたんじゃよ。自分の集落を自分の手で破壊させられた少年たちは相当苦しかったじゃろうの。
生まれ育った村を破壊しないといけないなんて…悲しいりゅー。
本部町の八重岳と真部山では激しい戦闘もあったぞ。八重岳と真部山は宇土部隊の本部や同部隊の「清末隊」の陣地があったから本部半島でも特に激しい攻防戦が繰り広げられることになったんじゃ。米軍が渡久地と伊豆味両側から八重岳と真部山に進撃し、日本兵350人が戦死したんじゃよ。住民も日本軍にスパイ容疑をかけられたり、食料を強奪されたりして多くの犠牲者を出したんじゃ。
なんだかかわいそうだね。今じゃ想像できないりゅー。
悲惨な戦争の中で人々はどんどん追い込まれていったんじゃ。北部地域では戦闘だけでなく食料不足による飢えにも苦しめられた。10・10空襲で家を失った人などが中南部から数万人も北部に避難してきたため食料が足りなくなってしまったんじゃよ。住民たちは山に隠れながらさまよい、飢えにさいなまれたんじゃ。特に中南部から避難してきた人たちは、慣れない土地で大変苦労したそうじゃぞ。住民や避難民は米軍に見つからないよう昼間は山奥に隠れて過ごし、夜に集落へ下りて食料を探す生活を続けたんじゃ。
<伊江島>女性も斬り込み参加
伊江島の戦中戦後は「沖縄戦の縮図」と呼ばれていりゅよ。何でかな?
一般住民が戦争に根こそぎ動員されたり、日本軍による住民虐殺、強制集団死(「集団自決」)の発生など、沖縄戦のあらゆる特徴がみられるからじゃよ。
そもそも、なんで伊江島が狙われたの?
伊江島は平坦な地形で航空基地に最適とされ、3本の滑走路を持つ大きな飛行場があったんじゃ。長さは1500メートルもあって「東洋一」だと言われていたんじゃよ。米軍も伊江島を航空基地に適した場所だとみていたから、日本本土への出撃拠点とするために日本から奪おうとしたんじゃ。そのため伊江島では、日米両軍による壮絶な戦いが繰り広げられたんじゃよ。
1944年頃から軍と県は老人や女性、子どもの疎開を進めていたんじゃが、米軍の複数回の空襲で船が破壊され疎開させることが難しくなった。その上、米軍上陸に備えた陣地構築や救護班などに村民を動員するため15歳以上の青年男女は島外に出ることが禁じられたのじゃよ。その結果、島に多くの一般住民が残ったまま地上戦が行われたんじゃ。伊江島の戦闘は一般住民による斬り込みが盛んに行われ、中には乳飲み子を背負ったまま斬り込みをした女性もいたそうじゃ。激しい戦闘の中で、島に残った住民約3600人のうち、およそ1500人が犠牲になったんじゃよ。
米軍は島を占領すると、飛行場を整備して米軍の航空拠点として使用した。生き残った住民は強制的に慶良間諸島に移動させられ、それから約2年間、島に戻ることはできなかったそうじゃ。また戦後は米軍に強制的に土地を接収されて、伊江島には今も島面積の約35%を占める米軍基地が残っているのじゃよ。
<宮古・八重山>マラリアに多数感染
伊江島にも米軍は上陸したんだね。宮古島や八重山にも来たのかな?
宮古島や八重山には米軍は上陸しなかった。でもどちらにも飛行場があったから戦闘機による激しい攻撃を受けたんじゃよ。宮古島は1944年の10・10空襲で初めての空襲を受けた。日本軍の飛行機は応戦に飛び立つことなく9機が破壊され、貨物船なども撃沈された。この日の空襲で軍要員10人が死傷したんじゃ。年明けからは空襲が本格化したため住民は壕の中での生活が続き、飢えとマラリアに苦しめられたんじゃ。
ふーん。マラリアってどんな病気なの?
マラリアは伝染病じゃ。マラリア原虫によって起こる病気でハマダラカが媒介して感染するんじゃよ。感染すると周期的な高熱発作や悪寒、頭痛、吐き気などに苦しめられるんじゃ。
八重山では沖縄戦が本格的に始まった1945年4月から、日本軍の命令で住民がマラリアがたくさんいる山中に避難させられた。そのため多くの住民がマラリアに感染してしまったんじゃ。八重山では45年当時の人口の約半数に当たる1万6884人がマラリアに感染し、3647人が亡くなったんじゃよ。戦争が終わった後も、食料や薬の不足でマラリアによる苦しみはすぐには終わらなかったんじゃ。
<山の避難小屋に隠れ>夜は里へ食料探しに
金城アイさん(国頭村浜、85歳)
戦時中、父は日本軍の軍属としてジャワ、スマトラへ行っており、私は母や弟2人、妹3人と国頭村浜で暮らしていた。1944年の10・10空襲で被害はなかったが、その後に那覇などから大勢の人が避難してきた。辺土名国民学校高等科の卒業式があった45年3月23日、学校へ向かう途中で空襲警報が鳴り、家に引き返した。(米軍上陸前、住民の避難用として)山奥に建てた避難小屋を何カ所か移動しながら隠れていた。
昼は山の避難小屋に隠れ、夜は里へ食料探しに行った。いつ米兵と鉢合わせするかとびくびくした。日本兵に見られたら食料を取られるとのうわさも流れた。自分たちの畑のイモが避難民に取られたようでなくなっていた。
地元の人は非常食を作り、保管していたが、避難民は食料確保に必死だった。那覇から避難してきた人が、(県系)2世(の米兵)から食料を受け取ったことが日本兵に知られ、スパイだとして浜辺で殺されたことが集落に広がった。
区長の呼び掛けで山を下りる際、若い女性は米兵を警戒して髪や服をぼろぼろにして年寄りに化けた。山から下りた直後は食料が不足し、多くの人がマラリアになった。マラリアで亡くなった避難民の遺体がむしろにくるまれ、埋葬されるのをよく見た。
小3の年齢だった弟は戦後、浜辺で釣りをしていた時、着陸しようとしてか低空飛行してきた米軍機の車輪にひかれて亡くなった。(米軍の)隊長が家に来たが、補償もなく本当に悔しい思いをした。
◇金城アイさんの証言は、2015年9月25日付16面「沖縄戦70年 戦場をたどる 市町村の沖縄戦(10)」から再掲載しました。
【各地域の沖縄戦】