沖縄への米軍の侵攻が迫り本土からの救援が望めない状況下で、日本軍、行政、警察が一体となって県民を戦力化し、国土防衛の組織体制を確立した。1945年2月、島田叡県知事をトップとする大政翼賛会沖縄県支部が主体となり、警察部が推進役となって各市町村長や学校に義勇隊の結成を指示した。15~60歳の県民の疎開を制限し、義勇隊への参加を義務とした。
日本軍は45年3月、大規模な防衛召集で計2万人の県民を集めた。3月末には旧制中学と師範学校の14歳以上の男子学徒が防衛召集され、二等兵とされた。さらに防衛召集の対象ではない多くの民間人が、義勇隊や炊事婦、看護婦などとして動員され軍に配属された。
義勇隊は根こそぎ動員の象徴の一つとされる(沖縄県史各論編6)。弾薬や食料運搬の任務を負い、戦闘を命じられた者もいた。本来、兵役法の対象は17歳以上(志願は14歳以上)だが、法的根拠のない17歳未満や女性も動員された。
戦後の県の調査で、県出身の軍人軍属の死亡者数は2万8228人とされているが、動員の全容は分かっていない。本土では国家総動員法による徴用は軍事産業労働などが主だったが、沖縄では動員された多くの県民が戦場で激しい戦闘の巻き添えになって死亡した。
【根こそぎ動員の証言】