「根こそぎ動員」とは?法的根拠なく、戦闘に巻き添え…


「根こそぎ動員」とは?法的根拠なく、戦闘に巻き添え… 第32軍司令部の長勇参謀長が首里市内で講演したことを伝える45年1月27日付の記事(沖縄新報)。県民を戦闘要員として組織する考えを表明し、「稼働能力のある者は国民義勇軍の組織を」「一人十殺、これで行け」など、防衛隊や義勇隊などとして県民の根こそぎ動員をもくろむ第32軍首脳の考えを明確にしていた。
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 沖縄への米軍の侵攻が迫り本土からの救援が望めない状況下で、日本軍、行政、警察が一体となって県民を戦力化し、国土防衛の組織体制を確立した。1945年2月、島田叡県知事をトップとする大政翼賛会沖縄県支部が主体となり、警察部が推進役となって各市町村長や学校に義勇隊の結成を指示した。15~60歳の県民の疎開を制限し、義勇隊への参加を義務とした。

 日本軍は45年3月、大規模な防衛召集で計2万人の県民を集めた。3月末には旧制中学と師範学校の14歳以上の男子学徒が防衛召集され、二等兵とされた。さらに防衛召集の対象ではない多くの民間人が、義勇隊や炊事婦、看護婦などとして動員され軍に配属された。

 義勇隊は根こそぎ動員の象徴の一つとされる(沖縄県史各論編6)。弾薬や食料運搬の任務を負い、戦闘を命じられた者もいた。本来、兵役法の対象は17歳以上(志願は14歳以上)だが、法的根拠のない17歳未満や女性も動員された。

 戦後の県の調査で、県出身の軍人軍属の死亡者数は2万8228人とされているが、動員の全容は分かっていない。本土では国家総動員法による徴用は軍事産業労働などが主だったが、沖縄では動員された多くの県民が戦場で激しい戦闘の巻き添えになって死亡した。

【根こそぎ動員の証言】

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>>根こそぎ動員された住民の地域別データと年表はデジタル版(6月23日付14面)で