沖縄戦から76年。なぜ住民が軍に協力させられ、亡くならなければならなかったのか。「根こそぎ動員」の実態を紹介する。
【体験者証言】安里ハルさん(100)
国防婦人会の一番下の役職に就いていた。日本軍の部隊陣地があちこちにあったので、きょうはここ、次の日はここ、とコーヒーやぜんざいを届けに行った。婦人会では、部隊の炊事も朝3時や4時に起きて行った。あの時は軍に協力しないほうが恥ずかしいくらいだった。自分たちから協力しないといけない、ということだったよ。
兵隊に「こっちに来て手伝って」と言われて、壕で「急造爆雷」を作るのを手伝った。敵の戦車がきたら信管を引き抜いて破裂する爆弾だ。箱には50くらいの穴が開いていて、火薬を詰めるのを手伝った。
米軍が前川(現南城市玉城前川)の玉泉洞まで来ているという時まで、兵隊と一緒に爆弾を作っていた。
壕に通信隊が来て「海岸に逃げて」と言われ、6月17日、小さな子どもをおぶって米軍に機関銃で撃たれそうになりながら逃げた。
日本兵14、15人を連れた少尉に出くわした。少尉らは摩文仁へ、私はギーザバンタへ。別れたすぐ後に、砲弾が兵隊をめがけて飛んでいった。みんな死んだはずだ。海岸に下りて壕に入り、米軍に捕まった。