沖縄戦の組織的戦闘の終結から23日で76年。その実相は子どもたちを含めた一般住民を巻き込み、学徒や軍属、防衛隊などとして根こそぎ動員し、日本本土防衛のために沖縄を捨て石にしたものだった。
戦後、動員に関わった区長など当事者の聞き取りを基に作成された「軍属に関する書類綴(つづり)」からは、沖縄戦で各地に展開した部隊が地域の区長らを通じて軍属を「現地調達」していたことが読み取れる。各部隊は行政責任者を強い指揮下に置いて住民を動員。武器をちらつかせて脅すこともあった。区長らは軍からの指示を「命令」と捉えて行動していた。
綴によると、高嶺村(現糸満市)に展開した第24師団は1945年2月上旬、村長に「各隊が人員の都合上、女子軍属を採用するから、各隊長より要請があった時は協力するように」という通達を出した。2、3日後、各部隊はそれぞれが展開する地域の区長を通じ、炊事婦や補助看護婦などを採用した。
玉城村(現南城市)のアブチラガマに司令部を置いた独立混成第15連隊(美田部隊)は45年2月、学校の生徒名簿に基づいて作成した義勇隊の入隊者名簿を学校に提示し、即日入隊させるよう要求した。綴には、証言も記載されている。校長が不在だったため、教頭が「校長が帰校するまで猶予してほしい」と述べたところ、隊長は「剣をジャラツカせて」脅したという。結局、要求から3日目の朝に生徒を入隊させることになり、校長は食事や服など生活の一切について軍人と同様に支給するよう約束させた。
独立歩兵第14大隊の医務室勤務兵長は45年3月25、26日ごろ、宜野湾村(現宜野湾市)志真志を訪ね、看護婦の提供を要請した。村関係者が断ると、翌日、周囲を赤く塗った文書を持参し、入隊を迫った。
中城村に駐屯した歩兵第63旅団独立歩兵第12大隊は45年3月27日、区長に女子青年団の入隊を命じた。団員は疎開を禁じられ、命令に背く者は鉄砲で撃つと言われていた。同月30日、隊の主計中尉は全員を集めた場で「決して犬死にさせない。戦死したら靖国神社に我(われ)らと共にまつられるのだから頑張ってほしい」と話したという。部隊には炊事婦として17人が入隊し、そのうち10人が戦死した。
(稲福政俊)
【根こそぎ動員の証言】