沖縄戦から76年。なぜ住民が軍に協力させられ、亡くならなければならなかったのか。「根こそぎ動員」の実態を紹介する。
【体験者証言】伊徳文さん(91)
若い人はみんな兵隊の手伝いで小禄や読谷、津嘉山に行って壕堀りをしていた。自分では行くことを希望しないけれど、村からの割り当てだから。15日間くらい働いて、戻ってきたらまた動員と言われて、家にはいなかった。
村役場の書記が家々を回って声を掛けていた。50、60歳の人も手伝いに行っていた。
読谷で激しい空襲があって、友達も散り散りになって。帰る道も分からず、水も食料もなく、どうしたらいいのか、と立ったまま泣いたよ。
竹やりを持たされていて「落下傘がきたら抜きなさい」と言われていた。そんなの抜く暇なんかないし、めいめい逃げるだろうが、そういう時代だった。
動員を断ろうものならすぐ「死なそうね」と言ってパラパラーと撃たれて殺されるよ。あの時代、そんな話はできない。
米軍に捕まり、母親とはぐれて一人でやんばるの収容所で4カ月くらい暮らした。小さい子たちもみんな親がいなくて、泣いて歩いている子どもたちがたくさんいたよ。