「捕虜」禁じられ自決する家族も 照屋次央さん 山の戦争(27)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
現在の本部町伊豆味の集落

 戦火を逃れ、飢えに耐えながら本部の山中をさまよった照屋次央(つぐひさ)さん(85)=浦添市=の家族は米軍に捕らわれます。家族の避難生活は終わります。

 《ある日、快晴で太陽の光がうっそうとした林に差し込んでいた。壕から出て久しぶりに脱衣して、その衣服(主として下着)の縫い代に寄生しているシラミを駆除していると、隣の壕の入り口に米兵が現れた。

 米兵は壕に向かって「戦争はもう終わった。殺さないから穴から出てきなさい」と下手な日本語で放送し始めた。しばらくするとゴリラみたいな米兵とヤギの目をした米兵が現れ、チューインガム、チョコレート、クラッカーなど珍しい食べ物をくれた。毒入りではないかと思いつつ、皆で分け合って食べた。》

 別の壕では米軍に捕らわれるのを拒み、手榴弾で命を絶った家族もいました。家族の中に日本兵がいたといいます。

 《われわれは捕虜になると男は惨殺、女は強姦されるものと教えられていた。「生きて虜囚の辱めを受けず」を過信し、自決したのでしょう。

 当時、学校では天皇は現人神と教えられ、天皇への忠義は国民の義務であり、「陛下のためなら死も恐るるに足らず」という考えを固守した。その上、捕虜となることを日本軍に禁じられた。

 住民は極限状態に追い込まれて死を選んだのでしょう。》