朝礼で「米英撃滅」復唱 當銘幸吉さん 山の戦争(29)<読者と刻む沖縄戦>


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當銘幸吉さん

 糸満市西崎の當銘幸吉さん(86)から体験記が届きました。當銘さんは豊見城村(現豊見城市)で生まれ、米軍上陸前に大宜味村へ疎開しました。その後、米軍の空襲や食料不足に苦しみながら東村や名護市の山中をさまよいます。名護市では日本兵による女性殺害を目撃し、母の判断で米軍の収容地区に向かいます。

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 當銘さんは1935年7月、豊見城村保栄茂で生まれ、母カメさん、弟の幸雄さん、幸栄さんと暮らしていました。父は軍属として中国・海南島に出征していました。

 43年、豊見城第二国民学校(現座安小学校)に入学します。天皇制教育、軍国主義教育が徹底していました。

 《校門の中の奉安殿(天皇・皇后陛下の写真の保管庫)にお辞儀をした。学校では運動場で「米英撃滅」「鬼畜米英」「ぜいたくは敵」「欲しがりません勝つまでは」と教えられた。》

 「朝礼なんかで米英撃滅と言わされたことを思い出します」と當銘さんは語ります。学校以外でも戦意高揚を意図したポスターを目にし、日本の勝利を信じます。

 《理髪店には日米の空中戦のポスターがあった。子どもながらに神国日本は負けないと思っていた。》

 「豊見城村史」戦争編によると44年時点の保栄茂は人口約840人でサトウキビや水稲などを生産する農村地域でした。保栄茂に日本軍が駐屯するのはこの年の夏ごろのことです。