対馬丸撃沈で疎開やめる 當銘幸吉さん 山の戦争(30)<読者と刻む沖縄戦>


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現在の豊見城市保栄茂。集落背後にウグヮン山がある

 當銘幸吉さん(86)=糸満市=が母や弟と共に暮らしていた豊見城村保栄茂(びん)に日本軍が駐屯したのは1944年夏ごろのことです。當銘さんは「昭和18年の後半より戦争の気配を感じた」と振り返ります。

 「豊見城村史」によると第9師団(武部隊)が駐屯し、民家が将校用の宿舎として使われます。第9師団が台湾に転出した後は別の部隊が駐屯し、陣地構築を進めます。保栄茂住民は軍への食料供出や壕掘り作業に従事しました。「各屋敷に壕を掘りました。集落後ろのウグヮン山にも壕があります」と當銘さんは語ります。

 学童疎開も始まりました。44年8月、保栄茂の児童30人が宮崎県に疎開しました。豊見城第二国民学校(現座安小学校)に通っていた當銘さんも疎開する予定でしたが、対馬丸撃沈を知って取りやめます。

 《昭和19年、国民学校2年生の時、学童疎開を申し込んだ。しかし、那覇の天妃国民学校や久茂地国民学校の児童を乗せた船が撃沈されたことを知った。その後、やんばるへ避難することになった。》

 當銘さんは「保栄茂の大人たちから『天妃小の子どもたちが乗った船が沈められた。そのことはしゃべるな』と聞かされました。撃沈を知り、私といとこたち2、3人で疎開をやめたんです」と話します。
 翌年3月、當銘さん家族は大宜味村へ避難します。