避難先喜如嘉の山中も空襲 當銘幸吉さん 山の戦争(31)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
大宜味村喜如嘉の集落。大勢の避難民を受け入れた

 當銘幸吉さん(86)=糸満市=は1945年3月、母カメさんや2人の弟らと共に豊見城村民の疎開割り当て地である大宜味村の喜如嘉へ疎開しました。

 《昭和20年3月下旬ごろ、豊見城村保栄茂(びん)より部落有志4人の引率で母親や子どもが大宜味村喜如嘉の山の中に避難した。

 嘉手納駅までは鉄道貨物車に乗って、その後は三泊四日かけて、徒歩で喜如嘉まで行った。》

 「豊見城村史」によると住民が保栄茂を出たのは米軍上陸の10日前の3月20日。36世帯、約120人が集団で大宜味村喜如嘉に疎開しています。疎開対象者は老人や子ども、女性たちで、食料や衣類など持てるだけのものを持って喜如嘉に向かったのでした。

 ただ、大半の住民は保栄茂に残りました。4月1日の米軍上陸時も集落にとどまっており、本島南部に逃れたのは5月末以降のことです。

 喜如嘉の住民が造った山中の避難小屋にいた當銘さんも安全ではありませんでした。空襲と飢えが家族を襲います。

 《山の中でも空襲を受けた。昼間は谷あいや川にいて、夜は小屋に戻る毎日だった。空襲はだんだんひどくなり、東村有銘方面、久志村三原、汀間方面に避難した。栄養失調やマラリアで大勢の母親や子どもが亡くなった。》

 やんばるの山中で家族は生命の危機と直面していました。