日本兵に殺されるより収容所に 當銘幸吉さん 山の戦争(33)<読者と刻む沖縄戦>


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収容地区があった名護市田井等の集落

 當銘幸吉さん(86)=糸満市=の家族は日本兵による住民殺害を目撃した2日後、米軍に捕らわれます。日本兵に強い恐怖を感じ、自ら羽地村(現名護市)の田井等収容地区に向かったのです。母カメさんの判断でした。

 「もんぺ姿の女性を殺した日本兵に驚いてしまい、日本兵に殺されるくらいなら、米軍に降参して捕虜となった方がいいと母は考えていました。端にタオルを付けた棒を持って田井等に向かいました」

 當銘さん家族はその後、宜野座村祖慶の収容所を経て1945年末、豊見城村に戻ります。

 《羽地村田井等より宜野座村祖慶に移される。昭和20年末、豊見城村伊良波、そして保栄茂(びん)部落の馬場へ。米軍野戦用テントで戦後の生活が始まる。

 南部島尻は家屋、役場、学校など全てが焼け、焦土と化した。爆弾穴、艦砲穴があり、不発弾もごろごろ。まさに地獄だった。》

 「豊見城村史」によると、伊良波には南部一帯で捕らわれた人々が短期間過ごす収容所や中北部から帰郷した人々を受け入れる収容所が置かれました。ここで住民がテント小屋で生活しました。

 保栄茂の馬場は集落の南側にありました。46年3月までに保栄茂住民は集落に戻り、家造りなど生活の再建に取り組みます。しかし、當銘さんの苦難はその後も続きました。