母亡くし3兄弟孤児に 當銘幸吉さん 山の戦争(34)<読者と刻む沖縄戦>


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田井等収容地区から戻った家族が暮らした保栄茂の馬場跡

 1945年末、當銘幸吉さん(86)=糸満市=家族は収容所から豊見城村に戻ります。ところが母カメさんが栄養失調で亡くなります。40歳でした。残された當銘さんと2人の弟は親類に預けられました。

 《私たち兄弟3人は戦災孤児になった。父親は中国の海南島より復員するまで1人は父方に、2人は母方にお世話になっていた。保栄茂(びん)の馬場のテント生活からトタン、バラック建ての屋敷へ移った。》

 「豊見城村史」によると保栄茂の沖縄戦犠牲者は355人で一家全滅世帯は19世帯に上ります。當銘さんは親類も大勢亡くなりました。

 《父方の戦没者は祖父母、おじ、おば、いとこ、いとこの子ども計12名、母方は祖父母、おば、おばの婿計6名、合計18名の親類を亡くした。》

 當銘さんは近所の人々の犠牲についても記しています。亡くなった時期や場所は「台湾沖海戦で戦死」「久志村三原で戦病死」「嘉手納農林学校在学中に学徒出陣で戦死」「中国戦線から生きて帰るも戦後間もなく不発弾で爆死」とさまざまです。

 《戦争で亡くなったおじさん、おばさん、いとこ、友人らの顔をいまだに思っている。生ある限り供養したい。平和が50年、100年と続くよう願っている。核廃絶、祈願、世界の恒久平和。》

 (當銘幸吉さんの体験記は今回で終わります。次回は80代の女性の体験を紹介します)