連載を読み、「私の体験をお話ししたい」という本島中部に住む83歳の女性からお電話をいただきました。女性は名護市の生まれ。名護や羽地の山で避難生活を送りました。
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女性は沖縄戦当時、7歳。両親と姉、弟の5人家族でした。父はブラジルで働いた経験があります。帰郷後、名護中心部で商売を営んでいました。
1945年3月末以降、米軍の攻撃が激しくなります。4月1日に上陸した米軍は北部に進攻します。家族は嘉津宇岳に避難しました。山中には多くの住民が避難していました。
女性は小型船に乗った米軍が上陸する様子を山中から見ていました。屋部、宇茂佐の海岸に米軍が上陸したのは4月7日です。「嘉津宇岳から見えるんです。忘れられません」
米軍は山中に砲弾を撃ち込みました。「女の人が飛んで来た弾で亡くなりました。父が『ここも危ない』というので親類のいる川上に逃げることになりました」と女性は話します。
家族は嘉津宇岳を出て、我部祖河を経て羽地村(現名護市)川上に向かいます。途中、地面から立ちこめる煙に驚きます。
「父が『下を見るなよ』と言うのですが、子どもなので見てしまう。そしたら日本兵の遺体がたくさんありました。砲弾でやられたのでしょう」
家族は川上へ急ぎます。米軍も近くまで来ていました。