母、姉も一緒に疎開 赤嶺松栄さん 住民の「疎開」(2)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
赤嶺さんが通っていた南風原国民学校(現南風原小学校)

 赤嶺松栄さん(85)=南風原町=は学童集団疎開の話が学校で出た頃のことを振り返ります。

 「学校では『子どもたちは戦争の足手まといになるので疎開に行きなさい』という話でした。『子どもたちは将来を背負うのだから』という考えもあったようです」

 沖縄県が1944年7月、国民学校長らに出した「学童集団疎開準備に関する件」は次のように書いています。

 「国土防衛態勢確立急務なるとき人口疎開の一翼として県下学童を安全地区に集団疎開し、戦時と雖(いえど)も少国民の教育運営に遺憾なきを期し、併せて県内食糧事情の調節を図らんが為…」

 戦場で足手まといとなる児童を安全な場所に移し、国を支える人材として育てる。併せて沖縄の食糧を確保する。これが学童疎開の目的でした。

 赤嶺さんは2人の姉、母カミさんも疎開します。父松助さんの判断で学童疎開ではなく一般疎開に切り替えました。

 《当初は私と3歳上の三女の2人を学童疎開へと、荷物に名札を付けるなど準備をしていました。しかし、沖縄の戦争が厳しいものになるとの父の判断で、急きょ母と6歳上の次女も入れて、4人での一般疎開となりました。
 当時は2、3カ月で帰ってくるとの内々の話でした。》

 父と祖父母は沖縄に残りました。県立病院に勤めていた長女は台湾に渡っていました。