軽い気持ちで宮崎へ出発 赤嶺松栄さん 住民の「疎開」(3)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
宮崎へ疎開する家族を乗せた船が出た那覇港

 赤嶺松栄さん(85)=南風原町=は1944年9月ごろ、九州へ疎開するため母カミさん、2人の姉と共に沖縄を離れます。

 《那覇港の出発当日は、沖合に停泊している本船まで、はしけ船で父も一緒に乗って行きました。4人は荷物を片付けて、父に「行ってきます」と手を振って合図する予定で甲板に上ってみると、もう父の姿はありませんでした。》

 那覇港を出る時の心境を振り返り「2、3カ月したら沖縄に帰ってくるつもりでした。それくらい軽い気持ちだったんです。沈められるという恐怖もありませんでした」と赤嶺さんは語ります。これが父との永遠の別れになるとは思ってもみませんでした。

 「沖縄は危ないことになる。ヤマトに一緒に行きなさい」と言い、父の松助さんはカミさんと次女を疎開に加えました。「父と離れて暮らすことになり、母は悲しかったでしょうね」

 船は鹿児島港に着き、列車で宮崎県高岡町(現宮崎市高岡町)に向かいます。

 《疎開先は宮崎県高岡町で、いったん高岡町公会堂に入り、そこから引率されて、予定されている宿泊地の字原園へと向かいました。宿泊先の家主さんは不思議なことに沖縄によくある「宮城」という姓で、何か縁を感じました。》
 呉服商を営んでいたことがある宮城家は物置に使っていた立派な部屋を家族のために用意していました。疎開地での生活が始まりました。