1944年秋から疎開地の宮崎県高岡町(現宮崎市高岡町)で暮らしていた赤嶺松栄さん(85)=南風原町=は沖縄にはなかった経験もしました。
《3年生に編入した私はしばらくして稲刈り後の落ち穂拾いを初めて経験しました。その経験を地元原園区の学事奨励会で「一粒の米も大切に」とのお話をしたら、非常事態の時代背景もあったとは思うが、素晴らしいと拍手喝采を受け、うれしかったです。》
気候風土の違いに戸惑った思い出もあります。意外な共通点もありました。
《3年生の時、「雪」の題で作文を書きなさいとの時間がありました。見たことのない雪、私は泣くに泣けない思いで、白紙を提出しました。
学校の週訓には沖縄と変わらず「標準語励行」がありました。常に標準語で話されているとしか思っていませんでした。》
宮崎にも戦争の影が忍び寄っていました。
《学級担任の高島嘉昭先生が従軍なされたので、慰問文を先生へお送りしました。先生が復員された時、ありがとうの言葉をいただき、ああ手紙が届いたんだと、嬉しかったことがありました。》
45年2月頃になり、敵機襲来を告げる火の見やぐらの鐘が大きく打ち鳴らされ、急いで防空壕に避難したこともありました。
学校生活に慣れ、4年生に進級した時には成績は良かったといいます。