赤嶺松栄さん(85)=南風原町=は父松助さんの人柄を「優しく子どもをしつける父でした。がみがみ言うことはありませんでした」と語ります。
松助さんは1902年、南風原村宮平で生まれ、嘉手納にあった県立農林学校で学びました。兵役を経験し、南風原村の在郷軍人会長を務めていました。「30代になっても意気盛んで、青年たちに銃剣術を教えていました。信望が厚く、教育熱心でもありました」と赤嶺さんは話します。
次女の弘子さん、三女の清子さんら3人の子に宛てた手紙にも、その人柄が感じられます。
《弘子、清子、松栄さん、しっかり勉強して皇国の為めに生活もよくやりて、うんと身体を健全にしなければなりませんよ。父さんは君の勉強と御身の事も故里で毎日祈って居りますよ。》
松助さんは防衛隊として戦場に動員されます。疎開地の宮崎県高岡町(現宮崎市高岡町)にいた赤嶺さんは、米軍が沖縄に上陸し、戦場になったことを断片的に聞きます。「玉砕」の具体像はつかめませんでした。
そして敗戦。「悲しかったのですが、これで沖縄に帰ることができると思っていました」と振り返ります。
敗戦後、疎開地の児童を家族が迎えに来るようになりました。赤嶺さんも「うちの父さんは来ないかな」と松助さんの迎えを待っていました。