故郷は「ぬーんねーらん」 赤嶺松栄さん 住民の「疎開」(8)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
現在の南風原町宮平

 赤嶺松栄さん(85)=南風原=ら家族4人は敗戦から約1年後の1946年9月、沖縄に戻ります。高岡国民学校の友だちとも別れの日が来ました。

 《ある日のこと、別れを惜しむ生徒から「赤嶺君歌って」との声が上がりました。私は淋(さび)しい気持ちにもなりましたが、意を決して「うさぎ追いしかの山」で始まる「ふるさと」を歌い、楽しく元気で学校生活を送れたことをクラスの皆さんに感謝しました。》

 鹿児島で船に乗った家族は那覇港でトラックに乗せられます。現在の沖縄市高原にあったインヌミ収容所に向かう途中、激戦で傷ついた南風原村宮平を通ります。

 《車が古里の宮平部落の後方(現在の国道329号)に差し掛かった時、突然母が「あいえーなー、宮平(なーでーらー)の後(くし)やっさー。ぬーん無(ねー)らんむんな。哀りやさ」とつぶやきました。
 車はインヌミ屋取(やーどぅい)の収容所に着き、DDTによる全身の消毒を受けて、約一週間とどめ置かれた後、出身地へ帰還しました。》

 防衛隊として戦場に動員された父の松助さんは45年6月16日、迫撃砲を受けて現在の糸満市真壁で亡くなっていました。一緒に沖縄に残った祖父母の最期は分かっていません。

 《埋葬されて骨があったことが、私たちにとってせめてもの慰めでした。祖父母はどこでどうなったか分かりません。》

 残された家族の苦難の歩みが始まりました。