住民、波照間へ帰島 本田昭正さん 島の戦争(7)<読者と刻む沖縄戦>


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波照間国民学校長、敷名信升さんが岩に刻んだ「忘勿石 ハテルマ シキナ」の文字=2019年

 日本軍の残置諜報員、山下虎雄軍曹の命令で、本田昭正さん(86)=浦添市=ら波照間島の住民が西表島東の由布島で疎開生活を送っている頃、南風見に疎開した住民はマラリアに苦しんでいました。

 7月までに死者は約70人に達し、住民の間で波照間への帰島を望む声が高まります。波照間国民学校の識名信升校長は石垣島に駐屯していた日本軍、独立混成第45旅団の宮崎武之旅団長に疎開の解除を求めます。

 《たまりかねた識名信升学校長は宮崎旅団長へ疎開地の状況を訴え、疎開解除と帰島の許可を得た。疎開地で島民の帰島の話し合いがなされた。

 山下虎雄は「帰島すると全滅するぞ」と反対したが、島民は「ここにいて、マラリアで全滅するよりは帰島すべきだ」と全員の意見が一致して、8月7日から夜間の航海で島への引き揚げを開始した。由布組は8月15日の終戦の後、昼間の航海で帰島した。》

 山下軍曹は西表島に渡った波照間住民の中から若者を集めて「挺身隊」をつくり、戦闘に備えていました。

 深刻なマラリア禍を忘れまいと、識名校長は岩に文字を刻みました。

 《識名校長は帰島に際し、青空教室に使っていた疎開地の岩場に、痛恨の思いで「忘勿岩 ハテルマ シキナ」の文字を刻んだ。》

 1992年、「戦争マラリア」の悲劇を伝える「忘勿石の碑」が南風見に建てられました。