【西原】西原町池田に住む中村陽一さん(67)が、大阪に住む姉とのやりとりを通じて、2013年に亡くなった母・吉子さん(旧姓・大城)の沖縄戦での体験をこのほどまとめた。1926年、旧玉城村前川(現在の南城市)に生まれた吉子さんは当時19歳。戦時中、球部隊の軍属として徴用され、読谷村の飛行場建設などに従事した。米軍上陸後は、炊事婦として部隊と行動を共にし、何度も九死に一生を得た。戦後、吉子さんは口癖のように何度も「ドゥナーヤ ハイヌミーフキティチョーヌチュ」(自分は針の穴をくぐって生還した)と語っていたという。
5人きょうだいの4人目(次男)の陽一さんは幼少の頃からよく吉子さんの沖縄戦の体験について聞いていた。今回、大阪に住む姉・康子さんとメールでやり取りする中で、吉子さんの沖縄戦での体験に話がおよび、陽一さんが、これまで聞き取った内容についてまとめた。
陽一さんによると、吉子さんは米軍上陸後に前川から糸満方面に移動。その後、米軍の攻撃に遭い、真栄平辺りで部隊を離れ、1人で逃げ回るようになった。その後、何度も米軍による火炎放射や艦砲射撃で危ない場面もあったが命からがら逃げた。陽一さんは「母は部隊から離れたから生き延びた」と振り返る。
吉子さんは米兵だけではなく、当時の日本兵とのやりとりについても語っていた。吉子さんが所属部隊と離れ、1人でさまよっている時に見つけた壕に避難しようとした際、先にいた日本兵に銃剣を突き付けられ「ここは民間人が入れるところではない。言うことをきかないと撃ち殺すぞ」と脅された。
吉子さんは徴用された際に告げられた認識番号を暗唱しながら「自分は軍属だ。戦が始まる前は砲弾運びなどをさんざんやらせておいて、こんな砲弾が落ちる外に出て行けというのか」と食い下がった。すると、日本兵から「よし入れ。艦砲が終わったらさっさと出て行け」と言われ、壕に入ることができたという。吉子さんは戦後、何度も「あのとき言い返せなかったら友軍に撃ち殺されていたか、艦砲の餌食になっていた」と振り返っていたという。
陽一さんは「母はよくお茶を飲んでいる時に沖縄戦の話をしてくれた。母は誰に対してもしっかり物を言う人で、足も速かった。あらためて母はすごい体験をしたと思う。体験をまとめて良かった」と語った。
(吉田健一)
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