のどかな島でも生命の危機 根保幸德さん 島の戦争(22)<読者と刻む沖縄戦>


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現在のうるま市与那城の宮城集落

 「平安座市」となった平安座島の人口は一時8千人を超えます。根保幸徳さん(87)=うるま市=は1945年10月、宮城島に戻ります。

 《5カ月ぶりに島に帰ってみると、家屋敷は荒れ放題で、どのように片付けてよいか分からないほどであった。家族で数日かかって、ようやく元の生活ができるようになった。》

 食料不足が続き、住民は米軍物資で命をつなぎました。

 《畑の作物は平安座滞在中に取り尽くされていたので、みんなは食料に困った。集落の共同売店が配給所として再開し、配給物資を取り扱った。物資は米軍の軍需余剰分、米、豆、食用油、缶詰などだった。》

 学校の再開は45年10月20日。根保さんは宮城初等学校の6年生となりました。

 根保さんは体験記の最後に「地上戦のなかった宮城島での私の手記は戦争体験とは言い難いが、戦争はのどかな島でも少なからず生活や生命を脅かしていた。そのことを後世の人たちに伝えたいので、あえて拙文を書くことにした」と記しています。

 沖縄本島の激戦地以外でも多くの県民が傷つきました。そのことを忘れずにいたいと思います。1945年9月7日、越来村(現沖縄市)森根で日本軍は米軍との降伏調印に臨みました。その日からきょうで76年です。

 (※注:根保幸徳さんの「徳」は「心」の上に「一」。根保幸徳さんの体験記は今回で終わります。「読者と刻む沖縄戦」は10月に再開します)