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「おかえりモネ」と沖縄戦(続) 「伝わらない」諦めの先に<沖縄発>


この記事を書いた人 Avatar photo 嶋野 雅明

written by 玉城 江梨子

【前編はこちら】→ https://bit.ly/3pJE4gd

 NHK連続テレビ小説「おかえりモネ」が10月29日で最終回を迎えた。物語の舞台は東京、気仙沼市、登米市なのに、私はこのドラマから沖縄のことを考えずにはいられない。東日本大震災を体験した者と体験していない者。その場にいた人といなかった人の「溝」。それはこれまで取材した沖縄戦体験者の証言からも感じることがあったーー。

戦後、米軍の収容地区内での住民の様子=沖縄本島(県公文書館提供)

 戦争当時12歳だった女性は、9歳の弟と、成人していた義理の姉(兄の妻)とその子どもの4人で熊本県に疎開した。疎開先では食べ物に困ったため、闇商売でなんとかやりくりした。沖縄に帰ったのは戦争が終わって2年たった1947年。家はなく、両親も亡くなっていた。戦後になっても学校に行けなかったことによる女性の苦労は長く続いた。

 「疎開しないで、沖縄で親と一緒に自分も死ねばよかったと思ったこともある」と明かし、失われた自分の人生に対する悔しさを切々と訴えた女性だったが、一通り体験を語った後、「沖縄にいた人に比べれば苦労とは言えないかもしれないけど」と付け加えた。それは自分が体験を語ってもいいのだろうか、という迷いから発せられた一言のように感じた。

 「おかえりモネ」を見ながら私が思ったのは、この女性のように沖縄戦中、沖縄にいなかった人たちのことだった。「私は助かったから」「私は苦労しなかったから」と体験を積極的に語って来なかった人たちが、どんな思いで戦後を過ごしたのか。一人一人事情は異なるし、戦争と震災を同じようには扱えないことも承知しているが、百音の苦しみから沖縄戦体験者の苦しみに思いをはせた。

■沖縄にはどれだけ「りょーちん」がいたのだろう

米軍占領後、収容所内での日本人の生活の様子(県公文書館提供)

 津波を見ていないことで苦しむ百音に対し、津波を体験し大切な人を失った苦しみを抱えるのが及川新次(浅野忠信さん)、亮(永瀬廉さん)親子だ。

 震災前、カリスマ漁師だった新次は、津波で妻・美波が行方不明となり、震災後は漁に出ていない。息子・亮と仮設住宅で暮らすが、酒を飲んでは暴れる。美波の死亡届を出すことを提案する美波の母親に対して、新次は「俺は立ち直らない」と前に進むことを拒否する言葉を発する場面もあった。

 残酷な現実を受け入れられるようになるまでの時間は人それぞれだ。時が止まったままの人もいる。新次の姿はそのことを思い起こさせる。

 たとえば、沖縄戦で両親を亡くした女性は、戦後きょうだいで生きていくが、兄の心はすさんでしまったという。女性は「すっかり人が変わってしまって。上手に料理ができなかったりすると殴られた」と話した。この兄の変化は親を失ったことが直接的な原因ではないかもしれない。しかし、戦争を境に変わってしまったことは事実だ。

 「おかえりモネ」の登場人物で最も重いものを背負っているのが、母親を亡くした喪失感を抱えながら、父親を支えなければならない亮だろう。でも亮は多くを語らずいつも「大丈夫」とほほえんでいる。物語の最終盤、亮は本心を問われ、「お前に何がわかる。そう思ってきたよ、ずっと。俺以外の全員に」とぶちまけた。

 沖縄戦から76年がたち、体験を語らないままこの世を去った人も多い。その人たちが何を思っていたのを確認するのは難しいが、沈黙し続けた人の中には「お前に何がわかる」「言っても伝わらない」と諦めや悔しさを抱えていた人もいたのではないだろうか。

■追いつかない心

 2012年3月。私は東日本大震災から1年を迎える宮城県を取材した。被災した沖縄出身者がこの1年どう過ごしてきたのか、被災地の宮城が今どうなっているのかを県出身者の姿を通して伝えた。約1週間という短い滞在だったが、その間沖縄出身者だけでなく、地元の人からも話を伺った。家族が亡くなり、一人残された高齢者。寝酒がないと眠れないという男性。子を失った親。さまざまな立場の人が震災と向き合い1年を過ごしていた。

 その中でも特に忘れられないのが、津波で大きな被害を受けた南三陸町で出会った女性の一言だった。

 女性は、町の中心部にオープンしたばかりだった仮設食堂「さんさカフェ」の内海明美さん。温かく優しい食事を提供するプレハブの小さな店舗は、被災者同士、被災者と支援ボランティアなどさまざまな人をつなぐ拠点の役割を担っていた。

「サンサカフェ」のスタッフたち=2012年3月、宮城県南三陸町

 震災直後の混乱期、避難所で被災者たちは助け合い励まし合ってきたが、避難所も11年8月で閉鎖。今まで築いたつながりを断ち切らないために、離ればなれになっても集える場所が必要だと生まれたカフェだった。カフェを運営するのは避難所運営で中心的な役割を担ってきた人たち。

 避難所生活、カフェの成り立ち、仮設住宅の課題などこの1年間のことを聞き、自然に話題は数日後に控えた3月11日のことに。

 「世間では一周忌と言われるけど、私はそんな気にはなれない。心がそこまで追いついていない。『復興』が叫ばれるし、そうなりたいと思っても現実は厳しい」

 前に前に進んでいるように見えた内海さんの口から出た意外な一言だった。支援に回っている内海さんも震災で夫を失い、家も流された被災者だ。今思うと内海さんは悲しみにうちひしがれないように、追いつかない心を見ないようにするため、必死に動いていたのかもしれない。

 そして、私に「沖縄も戦争で全てを失ったよね。戦争の傷を背負った沖縄がどう立ち直ったのか。強さを学びたい」と話した。

■わかりきれない、それでも…

日米の戦いで焼け野原になった現在の那覇市新都心地区(県公文書館提供)

 沖縄戦の傷は癒えたのだろうか。癒えてないとすれば、傷を抱えた人たちの戦後はどんなものだったのか。内海さんの一言をきっかけに私はそのことを考えながら沖縄戦体験者の話を聞くようになった。するとこれまでとは違う「沖縄戦」が見えてきた。

 「自分だけ生き残った」という自責の念を抱えながら生きてきた人々。死んだ場所さえわからない家族の遺骨を何年も探した人。子や孫が生まれ自分が幸せだとを感じるほど、沖縄戦で亡くなったきょうだいのことを思い出しつらくなると話した女性。戦後の方が大変だったと語った孤児。戦争体験はもちろん、戦後を生きてきた人々の体験も多様だが、多くの人が程度の差はあるが「傷」を抱えながら生きていた。

 震災後を生きる人々を描いた「おかえりモネ」は「他人の痛みを完全にわかることはできない」という趣旨の言葉を登場人物たちがたびたび発する。それと同時に「それでもわかりたい」「寄り添いたい」という姿も描かれる。

 私はこれまで100人以上の戦争体験者の証言を聞き、それが伝わるように工夫もしてきた。でもどこまで行っても私は沖縄戦をわかっていない、伝えきれていないと感じてきた。誰かの体験や痛みをその人と同じように感じることは不可能だ。

 それでも「聞く」こと。モネが震災後に架かった「橋を渡って」故郷の島に帰ったように、少しでも橋を渡り、理解したいと思い続けることが取材者として、沖縄で暮らす一人の人間としても大切なことだと毎朝、背中を強く押されている。


玉城江梨子(たまき・えりこ) デジタル編集グループ記者。1979年生まれ、宜野湾市出身。沖縄戦、医療的ケア児、子ども、障がいなどが取材テーマ。スーパー、コンビニなど身近な場所から見える経済の話題も好き。チョコミント、パクチー好きの引っ越し魔。


沖縄発・記者コラム 取材で出会った人との忘れられない体験、記事にならなかった出来事、今だから話せる裏話やニュースの深層……。沖縄に生き、沖縄の肉声に迫る記者たちがじっくりと書くコラム。日々のニュースでは伝えきれない「時代の手触り」を発信します。