伊豆味でも軍国教育徹底 高山朝光さん 山の戦争(37)<読者と刻む沖縄戦>


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高山朝光さん

 那覇市に住む高山朝光さん(86)=元県知事公室長=からやんばるの山々での戦争体験について話を聞きました。米軍の艦砲射撃が始まった1945年3月末以降、高山さんは本部町や名護市の山中で避難生活を送りました。

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 高山さんは1935年、本部村(現本部町)伊豆味で生まれました。父は出稼ぎのため海外におり、伊豆味では母と妹の3人で暮らしていました。高山さんは伊豆味国民学校(現伊豆味小中学校)で学びます。

 「赤瓦の校舎で、周囲には桜が植えられていました。裏山には松が生い茂り、牧歌的な雰囲気の中で勉強していました」

 伊豆味国民学校でも国に忠誠を尽くすよう児童生徒に求める軍国教育が徹底していました。高山さんも軍人にあこがれを抱きました。

 「宮城遙拝がありました。私自身も幼年学校に行こう、航空隊に入ろうと思っていました」

 41年12月、太平洋戦争が始まり、日本の戦勝が続きます。42年2月、シンガポールにおける戦闘で日本が勝利した時(シンガポール陥落)には「ちょうちん行列をやった記憶がある」と高山さんは語ります。

 日本軍は42年8月に始まる南太平洋ソロモン諸島・ガダルカナル島での戦闘で大打撃を受けます。この戦闘で亡くなった与那国島出身の大舛松市さんが「軍神」としてたたえられ、戦意高揚を図る「大舛大尉顕彰運動」が展開されました。「嗚呼 大舛中隊長」という歌も生まれました。

 「大舛大尉の『壮烈な戦死』が歌になり、私たちも歌いました」と高山さんは回想します。