
1945年3月末、米軍の空襲に続き、艦砲射撃が始まります。八重岳の壕に避難していた高山朝光さん(86)=那覇市=は伊江島と本部半島の間の海にひしめく米艦船を見ていました。
「海を埋め尽くした軍艦によるものすごい艦砲射撃で樹木が吹き飛ばされました。砲弾はヒューヒューと風音を立てて飛んでくる。生きた心地はしませんでした。避難していた住民は『助けてくれ』と大きな悲鳴を上げていました」
本島中部西海岸に上陸した米軍は北部に進攻し、4月8日以降、本部半島に攻め入ります。13日には八重岳周辺で戦闘が始まります。宇土部隊は16日、羽地村(現名護市)の多野岳への撤退を決めます。
宇土部隊は八重岳の近くの真部山にカノン砲を配備していました。米軍の猛攻に対抗するため、部下はカノン砲による反撃を進言しましたが、宇土武彦隊長は許可しませんでした。一度もカノン砲を使用せず、撤退時に破壊してしまいました。
「もし宇土部隊がカノン砲を使い、本気で米軍と戦っていたら、もっと大きな犠牲が出たのではないか」と高山さんは考えています。
高山さんの家族は撤退する宇土部隊の後を追い掛けます。「行く先は分からないが、どうせ死ぬのなら、軍と一緒に死のうと母たちは考え、宇土部隊を追い掛けました。理性が働かなくなっていました」と高山さんは語ります。