羽地村(現名護市)の多野岳から本部町伊豆味に戻った高山朝光さん(86)=那覇市=は荒れ果てた集落を見ます。
家は焼け、家畜の豚も焼け死んでいました。弾薬を担いだまま息絶えた日本兵、銃殺された軍馬を見ました。高山さん家族ら7人は伊豆味で米軍に捕らわれ、田井等収容地区に移されます。
本部半島や北部の住民、米軍上陸前に中南部から来た避難民は日本軍に苦しめられました。
宇土部隊は防諜やゲリラ戦など「秘密戦」の任務を帯びた部隊として知られています。防衛省にある資料は部隊の動向を淡々と記します。
《(1945年)四月一日 許田に敵は上陸 名護方面に進出す 爾後本部半島を中心に激烈なる戦闘を展開す
軍命に基き仝年四月十七日本部半島よりタニヨ岳に転進す
爾来遊撃戦を続行
勅令に基き仝年十月二日米軍の指揮を受け屋嘉収容所に入る》(原文カタカナ、4月1日の上陸地点は本島中部西海岸)
この記録にはない多くの住民犠牲と悲劇がありました。
高山さんはNHKに勤務していた頃、宇土部隊の生存者を訪ね歩いたことがあります。部隊の事実を明らかにするためでした。
沖縄戦では本島中南部の激しい地上戦が注目されますが、本島北部でも多大な犠牲がありました。「沖縄戦は中南部だけではない。北部の戦争を知ってほしい」と高山さんは語ります。
(「読者と刻む沖縄戦」はしばらく休みます)