「戦場の天国」識名壕にフェンスが…安全対策のはざま、宙に浮く平和学習<ふさがれる記憶…壕の保存・活用の課題>


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那覇市が入口にフェンスを設置した識名壕

 「外は地獄でここは天国だった」。負傷兵であふれる那覇市識名の識名壕内を“天国”と表現するほどの激しい集中砲火。沖縄戦当時、首里高女から動員された故・宮城巳知子みちこさんはこの場所で、自身の体験を語り継いできた。2015年に宮城さんが亡くなり、今は沖縄民間教育研究所所長の長堂登志子さん(71)が代わりに伝えている。

 識名壕では、沖縄戦で看護要員として動員された元女子学徒らの証言も残っており、平和学習に活用されてきた。

 那覇市は昨年2月、識名壕の入り口にフェンスを設置した。市は子どもなど不特定多数が立ち入りできる状態を「危険」と判断。「土地所有者から自治会が鍵を預かる条件で、フェンス設置の承諾をもらった」と説明する。ただ、自治会としては鍵を管理しない方針を決め、現在は市が鍵を持ち、管理が“宙に浮いた”状態となっている。

 今後の活用は不透明な状況で、長堂さんは「戦争体験者が話していたことを語り、肌で感じてもらう、とても大切な場所だった」と語り、活用の継続を望む。

 識名壕は1945年4月下旬、第62師団が先に入っていた住民を追い出し、南部に撤退する5月下旬まで、野戦病院の識名分室として利用した。同時期、第32軍司令部や部隊が集中する首里方面には米軍の砲弾が降り注いだ。昭和高女から、宮城さんと同じ62師団に動員された稲福マサさんは、識名壕で友人2人を失った。宮城さんや稲福さんは軍の南部撤退に従軍し、戦火の中を逃げ惑った。壕を追い出された、識名の多くの住民も南部で戦闘に巻き込まれ、命を落とした。
 (中村万里子)


 沖縄戦で使われた壕やガマが劣化し、自治体が埋め戻しや立ち入りを制限する事例が相次いでいる。県全体にある戦争遺跡の保存や活用の議論は進んでおらず、自治体で温度差も生じている。沖縄戦から77年、埋もれゆく戦跡と沖縄戦の記憶の継承を考える。


戦跡にフェンス「肌で感じる体験こそ大切」 沖縄戦の語り部ら危機感(那覇・識名壕)<ふさがれる記憶-壕の保存・活用の課題>1