「命を守ってくれたガマ」公開を続けて…糸満「マヤーガマ」地元の声で閉鎖見直し <ふさがれる記憶…壕の保存・活用の課題>2


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
マヤーガマの立ち入り制限を知らせる張り紙の前で、公開を求める山城区長の仲門保さん=1月、糸満市山城

 県環境再生課は、2018年から閉鎖している糸満市山城にある県平和創造の森公園内の自然壕「マヤーアブ(ガマ)」の利活用に向け、新たに有識者委員会を立ち上げ、検討を始めた。近く初会合を開き、現状と今後の方針を話し合う。18年度にいったん県などでつくる委員会で、中に入っての活用の断念を決めたが、地元の公開を求める強い声に押される形でゼロベースからの再検討を決めた。

 マヤーガマは、沖縄戦で集落の住民が日本軍に追い出されるまで1カ月ほど避難し、「命を守ってくれたガマ」としても知られる。しかし、1945年5月下旬、第32軍司令部は時間稼ぎの南部撤退を決め、糸満の摩文仁の壕に退却。各部隊を南部に再配置したため、各地で住民の壕追い出しや食料強奪などが相次いだ。

 マヤーガマもその一つ。沖縄戦研究者は「南部撤退がなければ追い出されることもなかった」と話す。住民は艦砲射撃の中を逃げ惑った。「若い人にどれだけ悲惨だったか伝えていかないといけない」。区長の仲門保さん(72)はこう力を込める。仲門さんの親やきょうだいらもマヤーガマに避難した。父親は戦後、「追い出された人間は攻撃の標的になり、喜屋武までの道は何千人という死体の山で歩くこともできなかった」と仲門さんに語って聞かせてきた。

 県が閉鎖の方針を決めた後、仲門さんは戦争体験者を集め、報道陣を呼んで取材の機会を設けた。「息を詰めて1カ月もこんなところに隠れていたのだと知ってほしい」「現状をそのままにして中を子どもたちに見せてほしい」―。現場の保存や調査、利活用を求める切実な声が上がった。

 地元の強い声を受け、県は利活用方針の見直しを決めた。県環境再生課の担当者は「地元の方々がガマを大切に思う気持ちはよく分かった。今後の活用についてどのような形が良いのか、白紙ベースで検討していきたい」と強調する。
(中村万里子)