「やっかいものか、財産か」マヤーガマ活用、地元と合意形成が重要<ふさがれる記憶…壕の保存・活用の課題>3


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県が昨年3月に開いた住民説明会。住民からは「中に入れるようにしてほしい」といった声が上がった(県提供)

 糸満市山城のマヤーガマは戦後、地元が大切にしてきたガマで、平和学習にも使われてきた。県は、崩落の危険から緊急の措置で閉鎖した後、内部に入っての活用の断念を決めた。しかし、地元の強い意向で方針を転換。ゼロベースでの再検討を決めた。一連の経緯は、地元や沖縄戦研究者などの知見を取り入れながら、丁寧に検討を進める重要性を示唆する。

 マヤーガマには、米軍の空襲が始まった1945年3月から6月ごろまで約100人の住民が避難した。「この陣地はわたしらが使うから地方民は出なさい」。南部撤退してきた日本兵が、軍刀で入り口の畳を切り裂いた。追い出された住民は海岸一帯に逃げた。戦後、住民はガマにいた時には誰も死ななかったことから、ガマを子や孫に語り継いできた。

 そのガマが2018年4月に閉鎖された。県が業者に委託したガマ内部の調査で、25カ所で岩の崩落が懸念されたことなどが理由だった。平和学習で利用してきた観光ボランティア団体や地元には“寝耳に水”だった。

 「閉鎖は突然すぎた」。主に修学旅行生を対象に平和学習で活用してきた、県観光ボランティアガイド友の会の高嶺典子事務局長は、振り返る。県から何の連絡もなく、修学旅行生を連れて行った日に突然、閉鎖を知らされたという。友の会は、県に戦争遺跡としての活用を提案。県が活用方針の検討のため、委員会を立ち上げると聞き、友の会も委員に加えてほしいと県に要請を繰り返した。「県がやっかいなものとしてふさいでしまうのか、財産と考えるのか、どう受け止めるかですね」。高嶺さんは担当者に念を押した。

 しかし、県の委員会には友の会や地元住民は招かれず、自然体験の専門家と、県の関係各課、コンサル業者が入った。委員会は、ガマ内部での教育体験を活用方針から除外することを決定。県は、理由を「住民から『内部の景観が変わってほしくない』との意見があり、現在の工法では難しいため」と説明する。

 しかし、県の方針に対し、地元は「後世に見せられないのは問題だ」と内部に入る活用を強く求めた。県は20年4月に方針の再検討を決めた。21年11月、新たに有識者委員会を設置。沖縄戦研究者も委員に加わった。委員の一人は「首里城地下の第32軍司令部壕の保存・公開に向けた、模範的なものにできればいい。戦争遺跡として残しながら平和学習にも活用していければ」と思いを明かす。
 (中村万里子)