ヌヌマチガマ、ガイドや周辺整備進むが…文化財指定めざし劣化対策は最小限<ふさがれる記憶…壕の保存・活用の課題>6


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
ヌヌマチガマを案内する嘉数千秋さん。町がガマ入り口を整備した=2021年12月

 八重瀬町新城の「ヌヌマチガマ」は、沖縄戦で第24師団第一野戦病院の分院として使われ、戦後は平和ガイドが修学旅行生を案内してきた。2015年、町は国の一括交付金で入り口に階段などを設置し、周辺に大型バスの止まれる駐車場も整備した。観光活用を目的に指定管理者制度を導入したが、それまで案内してきた団体が排除される形となり、そうした団体や元学徒らから異論が相次いだ。

 町は、2015~17年に「NPO法人自然体験学校」にヌヌマチガマの管理を委託。他の団体が利用できない状況となった。町観光商工課の新里尚美班長は「他の団体を排除する意図はなかった。NPOに問い合わせても『(他の団体も)利用できる』という回答だった」と話す。

 しかし、庁舎内でも「優先的に一団体だけに使われるのはどうか」という議論があり、3年間の契約が終了する17年度で同制度を終えたという。現在は町の直営で、事前予約すれば1人100円で町が認める団体のガイド同行で入壕できる。

 認定団体の一つ、「八重瀬町ガイドの会」の嘉数千秋さん(45)=八重瀬町=の案内で、ヌヌマチガマに入った。嘉数さんは元バスガイドで、戦争体験者の話を聞く中で自身の勉強不足を痛感。平和ガイドを志すようになり、町のガイド養成講座を受講した。

 1945年6月初旬、分院閉鎖の際には青酸カリが配られ、学徒らは兵士らが次々に自決する惨状を目の当たりにした。生き延びた元学徒らは戦後も苦しみ続けたが、記憶に向き合い手記を記した。嘉数さんは白梅学徒らの思いを継ぎ、沖縄戦を継承する「若梅会」にも加わる。「『戦争を絶対にしてはいけない』、体験者のその思いをつなげたい」と力を込める。

 町は史跡指定を諦めてはいない。一括交付金で私有地だった入り口周辺の土地を購入し、天井の岩は崩れないよう鉄骨で補強したが、その際、内部は整備しなかった。「中には手を付けないでほしい」という教育委員会の要望があったためで、今後の発掘調査や文化財指定を見据えた対応という。ただ、そのままにしておけば、内部が劣化し落盤などの懸念もある。

 新里班長は「そうした場合には閉鎖はやむを得ないだろう」との考えを示す。それでも「沖縄戦を追体験するためには、本当はできるだけ中を整備しない方がいい」との考えで、仮に閉鎖が懸念される事態が生じれば「専門家の意見も聞いて検討する」と話す。

 修学旅行のキャンセルが相次ぎ、訪れる人が少なくなる中、町は平和学習での活用を検討する。ガイドの嘉数さんは、町の学習コーディネーターと連携し、具志頭小や新城小の案内を始めた。嘉数さんは「もっと町内の子どもたちに足を運んでもらい、自分たちの住んでいる町に、こういう戦跡があるのだと知ってほしい。地元の人などがパッと来てもすぐ入れるような仕組み作りができたら。資料館の建設が夢です」と語る。
 (中村万里子)